ルンデの会例会

金澤 攝 「若き日のラヴィーナ」
Osamu N. Kanazawa 〜 Ravina

◎1990年、7ステージにわたり紹介した作曲家の再提示◎

攝

ジャン・アンリ・ラヴィーナ Jean Henri Ravina (1818-1906)

25の性格的練習曲 Op.3
優雅なロンド Op.4 
三つのカプリス Op.6
演奏会用作品 Op.8
※「サロン幻想曲 Op.5」に換えて
優しい想い Op.41

プログラムノート
2003年9月17日(水)19時
スタジオ・ルンデ(名古屋市中区丸の内 2-16.-7)
【参加会費】一般 \4,500、ペア \8,000、学生 \2,000 一部座席予約可(160席中約50席)
【予約、お問合わせ】スタジオ・ルンデ  TEL:052−203−4188

《若き日のラヴィーナ》

 ジャン・アンリ・ラヴィーナ(1818−1906)は19世紀のパリを代表するピアニスト・コンポーザーである。彼はショパンと同世代人であり、ピアノに創作力の総てを注いだ点で、また非凡な演奏の名手であった点で一致しているものの、その作品内容・生涯共にショパンとはまるで対照的であった。
 20世紀まで生き永らえた88年の生涯は、この世代では最長命であり、快晴の青空のような明快さ、南国的で楽天的な情趣といったものは今日では絶えて見られない特性である。
 南仏ボルドーに生まれ、パリ音楽院でジメルマン(1785−1853)に師事、16才でプルミエ・プリを得て、ジメルマンの助手を務めた。師に献呈された「12のコンサート・エチュード」Op.1は音楽院の教材としても使用された。ジメルマンにとっては、アルカン(1813−1888)と共に、最も信頼を寄せる弟子として両腕のような存在だったと思われる。またアルカンとは生涯を通じて長い友情で結ばれている。
 ラヴィーナはOp.番号にして115を数える作品と、いくつかのOp.なしの作品を書いた。一曲のピアノ協奏曲(Op.63)、9巻の練習曲集(Op.1、3、14、28、50、60、78、89、Op.なし)以外は全てサロン風小品(集)ばかりである。特に20代に書かれたOp.番号一桁の作品は、殆どスポーツや武道に通ずる圧倒的な超絶技巧の展示会の様相をなし、その機能性・覇気は先輩アルカンを凌ぐばかりである。ラヴィーナは間もなく穏健な作風へと転換するが、入れ替わるようにアルカンは「超絶路線」を驀進してゆく。若きラヴィーナが後年のアルカンへの起爆剤となった可能性は否定できない。特に「練習曲」としての効用は、ショパンやリストを上回るとさえいえよう。
 今回のコンサートは、この時期のラヴィーナにスポットを当てるものである。これらの作品を完全に消化できれば弾けない曲などまずない。
今回の演奏が説得力のあるものだとしたら、それは紛れもなくラヴィーナの恩恵に違いない。
(2003. 5. 20−ラヴィーナの185年目の誕生日に 金澤 攝)

●演奏にあたって

 今日の音楽辞典でアンリ・ラヴィーナの名を見つけることは難しい。この忘れられた巨匠は少なくとも当時、ショパンやリストに匹敵する人気と声望を得ていた存在だった。それがどうしてここまで見事に消滅したのだろうか。サロンの風習が廃れ、後期ロマン派や印象派といわれる音楽の潮流がそれ以前の音楽の殆どを押し流したといえなくもないが、そこで残るものと残らないものの違いとは?
 芸術性云々といった抽象的な論議はさておき、まず演奏されなくなった理由として、例えば演奏困難ということは決定的な要因にはなり得ないであろうし、あるいはソナタなどまとまった曲がなく、機能的な練習曲集とサロン風小品ばかりではリサイタルのプラン上、用いにくい、ということはあったかもしれない。しかし、何よりもラヴィーナの輝くような明るさが、その後の時代の性格に合わなかった、とはいえるだろう。これ程健康的で率直な音楽も珍らしい。それはあたかも快晴の碧空のようである。しかし大衆、否、とりわけ演奏家たちに「芸術性」をアピールするには、もっと深刻で苦悩の色濃いものである必要があった。なぜなら、歴史に残る名曲で楽観的音楽というのは、まず至高の地位を得ないのであるから。人間の心というのは、どうしても悲哀の情に弱いらしい。さらに私が感じていることは、特に「ロマン派」と呼ばれる時代の作品は、人間の主観、主情が露骨に反映されていて、そこで多くの人間を無抵抗にし、魅き入れてしまう魔力の正体は「愛情」であると思われる。ところがよく注意してみると、例えばショパン、シューマン、リストの情動のあり方と、ラヴィーナ、ライネッケ、ルビンシテインのそれは全く対照的なものといってよい。前者は多分に個人的なものであり、後者はもっとグローバルな性質を持っている。要するに「恋愛」と「博愛」の違いなのである。一般にどちらに人間がなびき易いかは言うまでもないが、ただ、この両極は「個から全へ」と「全から個へ」のプロセスの違いとも云えよう。作品を「芸術的」観点以外に、品性、境地または倫理性といった観点から眺めてみることも意義があろうと思う。
 万物を隈なく照らす陽光のような音楽。そうした音楽に共感を覚える演奏家はそれ程少ないのだろうか。

        2003. 9.15 Osamu N. Kanazawa


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