Weekly Spot Back Number
August 2001


101  どこまで自分を守ることが出来るか  8月 6日版
102  言っちゃ悪いがドタバタ劇 8月13日版
103  下がった「武士」の値 8月20日版
104  「木曽音楽祭」の勝手な感想です 8月27日版



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【101】 2001年 8月 6日号

Teddy●どこまで自分を守ることが出来るか
 思いもかけぬ事故・事件が頻発する現状は、確かにどこかが狂ってと思わざるを得ない。
 ところで、日本の夏の風物詩として江戸時代から親しまれている花火大会。明石での悲惨な事故は集まった群衆の帰路に発生した。しかも複数の死者は一人の大人以外すべて幼児という痛ましいもので、その大人も年配者で幼児を救おうとして自らが犠牲となったと聞いては言葉もない。例によって事故発生後様々な「問題点」が指摘され、それによれば当然「起こり得る事故」だったことになるのが悔やまれる。そもそもそれまでにしばしば催されたイヴェントで、その橋上の混雑具合が孕む危険性に警戒心を抱いた人達が当局に対処を具申していたにも拘わらず、結局悲劇が起こるまで放置されるという、他にも同様な例があるような「お役所感覚」が災いしていたのではないか。
 例えば跨線橋の構造(階段が広く通路が狭い)に欠陥を意識し、迂回路への積極的な群衆誘導措置などが講ぜられていれば或る程度は避けられたとの想いも強い。しかしながら今回犠牲がほぼ幼児に限られたことを考えると、大人も歩行が困難に思える混雑の中に、何故連れ込んだのだろうかとも思わざるを得ない。我が身を守るすべを持たない子供は充分に保護されねばならぬし、同時に、家庭を離れた至る所に潜む危険性から少しでも被害を被るのを免れるための自衛策を、子供に身を持って学ばせねばならない。
 先日の関西での女子中学生事件などは、卑劣な犯行を憎み、被害者をお気の毒と思うと同時に、そのあまりな無警戒さを残念に思うのもまた事実である。念のため断っておくが、被害者をなじったり犯罪を正当化するつもりは勿論毛頭無い。何事も起こらないのが一番の平和であるが、好むと好まざるとに拘わらず事件や事故は起こる。自分が積極的な当事者にならないためには、常に自らを守る姿勢が必要であると云いたいのだ。はやりのアウトドア・ライフを楽しむのは随意だが、気象条件を無視した行動で危地に陥り、他人の手を煩わして救出されたり、あるいは命を落としたりする例のいかに多いことか。これなども無警戒の極致と云えよう。
 いかなる法治国家、文明社会と云えども、法律や社会は人を守ってはくれない。人が法を守り、社会を守ってこそ初めて意義がある。そして、自らを守ることは他者を守ることでもある。
 我が身を守る意識と知恵を忘れたくないものだ。

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 【102】 2001年 8月13日号

Teddy ●言っちゃ悪いがドタバタ劇
 一連の外務省官僚の「取り込み汚職」などに対する処分が発表になった。田中外務大臣が大臣報酬の1ヶ月支給停止を自ら決裁して一応のキリが着いた感じである(10ヶ月間10%減給の方がミミッチク感じる?)。積年の「伏魔殿」を暴いた当人が形ばかりにせよ責任をとっているのに、問題が進行しつつあった当時それを放置していた大臣連中は、みな「我不関焉」とばかり頬被りをきめこんでいるがいい気なものだ。機密費横流しが明るみに出た当時の河野前大臣などは、競馬ウマが何ビキもこぼれ出すほど有り余っているのに「もっと増やしたいくらいだ」と公言したのには呆れてものも言えなかった。その後ゾロゾロ明らかになってくる不祥事を見ても、オヤクショとは何でこんなお粗末な感覚の持ち主が集まっているのか、「ダイタイ、テメエガアセミズタラシタカネジャァネェトオモヤガッテ」とまではやっと毒づいてもあとは絶句するのみ……(そう言えば、「堺屋以後」の愛知万博でも「採算を考えていたらいいことは出来ない」なんぞとカッコイイ発言をなさっているおエライ方がおいでだが、いざとなっても自腹を切るつもりなど毛頭ないクセにヨク言うよ)。
 駐米大使問題がスッタモンダしたと思ったら、今度は「応援演説事件」。候補者の落選の原因が、ひとえに外相の「応援」の仕方の悪さにあるとばかりに「懲罰」だの「謝罪」だのと騒いでいる。現職の国会議員がどんな不祥事を起こしても「懲罰」も「辞職勧告」も「除名」も出来ないのに、揚げ足取りに躍起になるのは珍なる現象。
 ちゃんと応援して欲しければ、事前に当人と話をするなり、それが無理なら(と言うこと自体がヘンだが)トラックに担ぎ上げる前にメモなどで氏名など必要最小限(!)の情報を与えるべきで、それが為されていなかったのは「人寄せパンダ」に使おうとしか思っていなかった魂胆を露呈した依頼者側の責任である。そもそも「あれは選挙妨害」と息巻いて中央に文句を付けた筈の当の県連でも、メンバーが「会長個人のしていることで……」と言葉を濁すのが面白い。だいたい、当日は「話題のタナカマキコを一目見たい」と集まった人が大半で、彼女が何を言おうが申し訳ないが候補者への投票には何の関係もなかったに違いない。現に「謝罪」に県連に赴いた彼女を報ずるテレビに、画面外から「マキコサーン、ガンバッテェ!」と黄色い声がかかる可笑しい場面もあった。そして、用意した原稿を棒読み(そう、この上ない棒読み)する田中氏、硬い表情で報道陣を前に挨拶する県連会長、それ等を見ているとまさにセレモニーのためのセレモニー以外の何ものでもなく、時間と費用を無駄にしたお粗末なドタバタ劇の一幕であった。
 先の国会での鈴木宗男氏の「いびり質問」以来、田中外務大臣に対する風当たりは、どうもズバズバと言いたいことを言い奔放に行動する女性外相への男どものケチな嫉み妬みが露骨に見え隠れしていただけない。
 「清濁合わせ飲むのが政治」などと日頃判ったようなことを言う人が多いが、どうも「濁」の方にばかり関心を持ったり時には変に理解が深かったりする風潮だ。何が「清」で何が「濁」であるかを正視する意識が肝要である。

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 【103】 2001年 8月20日号

Teddy●下がった「武士」の値
 また、外務省の話……。
 新聞に拠れば、在パラオ大使館の前理事官が公費約1億円を流用した問題で、杉浦正健外務副大臣が『公表することで彼の人生の選択の幅を縮める。これも武士の情け、人情かなと思い(不公表とすることを)了承した』と語ったそうだ。
 当節「武士」の値も下がったものである。外務官僚が「武士の情け」を口にするなら、かの杉原千畝氏の行動に当てはめ、本省指令に違背したその行動を人類愛という高い見地からこそ黙視するべきであった。大体「武士の情け」と「人情」は全く異次元の問題である。「武士」というのは極めて限定された環境の中に生きねばならない者であり、それゆえに様々な生き様が展開される。その中での真の「武士の情け」は深い意味を持つ。余談だが、先日ルンデに来演したロシア生まれのピアニスト、イリーナ・メジューエワさんは『武士道というは死ぬことと見つけたり、という「葉隠」の美意識に強くひかれた』という。副大臣氏の武士というものへの認識はどの程度だったかおよそ知れようと言うのは、次ぎのような発言にも明らかである。曰く『若い青年が過ちを犯し、厳正なる処罰を受けたが、家族もある。いたずらにむち打つだけがいいとも思えない』。これは極めて安易な人情である。本人の国家公務員として立場など全く顧慮されていない。例えば郵政職員が僅か5000円の現金書留を横領した時、そんな寛大な処分が行われるのだろうか。
 さらに『処分すればいずれは世間に漏れてくる。差し当たって公表しないのは一つの考え方だ。不公表と隠蔽は違う』と強弁するのを聞いてはただ呆れ果てるのみ。これこそ詭弁以外の何物でもない。漏れなければ頬被りしようというケチな考えを恥ずかしくもなく堂々と口に出来るものだ。 (ここでも新聞は淡々と「報道する」のみで格別論評しない。その寛大さ!)

 思えば、政治家・官僚諸氏は「泣いて馬謖を斬る」という言葉などさらさらご存じないようだから、推して知るべしか。

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 【104】 2001年 8月27日号

Teddy ●「木曽音楽祭」の勝手な感想です
 日本での避暑地の音楽祭の草分け的存在である、木曽音楽祭。今年ははや第27回を迎えますが、「フェスティヴァル・コンサート〜2」となる8月25日(土)を覗きました。
 この日もなかなかのいい入り。開場2時間近く前からぼつぼつ入場待ちの列が出来始めたのには驚きました。最近は「キップの売れ行きも良くなって……」と主催者側は喜んでいるのですが、実際近年急速に聴衆が増えてきました。「官営」になってからは「国際」な名もはずし、マスタークラスもやめて日本の代表的アーティスト達で固めた演奏会シリーズに徹したのが、親しみやすくなった原因かも知れません。後発の信州各地の「高級志向」のものよりも気軽なことが受けているようですが、「避暑地のリラックスした雰囲気の中で楽しむ」には、ちょっと「中身が難しい」と言う声も多く聞くようになりました。普段の都会のコンサートではめったに聴けない演奏者の組み合わせによる室内楽のしかも珍しいレパートリー、それに一夜の出演者が10名を超えることなどが、ファンにとってはこういう時の最大の魅力ではあるのですが、一方で「ここでしか聴かない」層も増えているところにジレンマも生じているようです。
 それはさておき、この日は、フランセ:“八重奏曲”、シェーンベルク:“ピアノ五重奏曲”(“室内交響曲”のウェーベルンによる編作)、プーランク:“ピアノ、オーボエとファゴットのための三重奏曲”、ブラームス:“クラリネット五重奏曲 ロ短調”というメニュー。そして演奏の白眉はピアノの寺嶋陸也が強烈なリーダーシップを発揮し、ヴァイオリンの小林美恵が熱演したシェーンベルクで、この一曲を聴けただけでも、日帰り強行軍で来た甲斐があったと思いました。
 因みに勝手を言わせて貰えば、フランセはヴァイオリンの漆原啓子と久保陽子のキャラクターの衝突に加え、弦群と管群のアンサンブルがまとまりを欠き、プーランクは曲の持つイメージにたいしてメンバーの個性がややミス・キャスト気味。ブラームスは憂愁の色濃い第2楽章は仲々の出来でしたが、ヴァイオリンの服部譲二と川田知子が過熱気味、チェロの山崎伸子とクラリネットの山本正治はベテランらしく尋常でしたが、それらの間に挟まったヴィオラの廣狩亮が何となく「借りてきた猫」みたいな雰囲気でかしこまっていたように感じられたのは可笑しい、そして何よりも長かったァ……という実感。
 それから、どうでもいいことかも知れませんが気になったのは、「目玉」の(一つでしょう)開演を知らせるアルプホルンのトリオと、後半の開始を告げるホルン四重奏が、どちらもものものしく譜面台を立てていたこと。たとえピアノ・ソロでも「演奏会」で譜面を見ることは一向に気にしないのでが、こと「イヴェント」となれば、それに短いフレーズでもあり、ここは一番奮起してカッコヨク暗譜でやって貰いたいものでした。
 以上、この日をお聴きになった皆さんのご感想は如何でしょう。

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