●どこまで自分を守ることが出来るか
思いもかけぬ事故・事件が頻発する現状は、確かにどこかが狂ってと思わざるを得ない。
ところで、日本の夏の風物詩として江戸時代から親しまれている花火大会。明石での悲惨な事故は集まった群衆の帰路に発生した。しかも複数の死者は一人の大人以外すべて幼児という痛ましいもので、その大人も年配者で幼児を救おうとして自らが犠牲となったと聞いては言葉もない。例によって事故発生後様々な「問題点」が指摘され、それによれば当然「起こり得る事故」だったことになるのが悔やまれる。そもそもそれまでにしばしば催されたイヴェントで、その橋上の混雑具合が孕む危険性に警戒心を抱いた人達が当局に対処を具申していたにも拘わらず、結局悲劇が起こるまで放置されるという、他にも同様な例があるような「お役所感覚」が災いしていたのではないか。
例えば跨線橋の構造(階段が広く通路が狭い)に欠陥を意識し、迂回路への積極的な群衆誘導措置などが講ぜられていれば或る程度は避けられたとの想いも強い。しかしながら今回犠牲がほぼ幼児に限られたことを考えると、大人も歩行が困難に思える混雑の中に、何故連れ込んだのだろうかとも思わざるを得ない。我が身を守るすべを持たない子供は充分に保護されねばならぬし、同時に、家庭を離れた至る所に潜む危険性から少しでも被害を被るのを免れるための自衛策を、子供に身を持って学ばせねばならない。
先日の関西での女子中学生事件などは、卑劣な犯行を憎み、被害者をお気の毒と思うと同時に、そのあまりな無警戒さを残念に思うのもまた事実である。念のため断っておくが、被害者をなじったり犯罪を正当化するつもりは勿論毛頭無い。何事も起こらないのが一番の平和であるが、好むと好まざるとに拘わらず事件や事故は起こる。自分が積極的な当事者にならないためには、常に自らを守る姿勢が必要であると云いたいのだ。はやりのアウトドア・ライフを楽しむのは随意だが、気象条件を無視した行動で危地に陥り、他人の手を煩わして救出されたり、あるいは命を落としたりする例のいかに多いことか。これなども無警戒の極致と云えよう。
いかなる法治国家、文明社会と云えども、法律や社会は人を守ってはくれない。人が法を守り、社会を守ってこそ初めて意義がある。そして、自らを守ることは他者を守ることでもある。
我が身を守る意識と知恵を忘れたくないものだ。
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