Weekly Spot Back Number
Jan. 2001


70  ウチにも来たッ!? 1月 1日版(第1週掲載)
71  「規範」というもの 1月 8日版(第2週掲載)
72  たびたび蒸し返しますが…… 1月15日版(第3週掲載)
73  異次元の世界? 1月22日版(第4週掲載)
74  人が人を守る(2) 1月29日版(第5週掲載)



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 2001年 1月第1週掲載

Teddy●ウチにも来た!?
 元旦、年賀状に混じって、堅い封書がありました。宛名の字になにやら見覚えが……。裏を返すと差出人も自分……?? もう一度表を見ると、ああ「ポストカプセル」。筑波万博の時の「ポストカプセル」だった。すっかり忘れていた、そんなことをしたのを。テレビのニュースでやっていたのを、面白がって観ていたのに、まさかそれがウチにも来たなんて……。
 中身は――当時1985年、折しも『バッハ生誕300年』の年、オープン5年目、希望に燃えていたルンデは、小林道夫企画・監修による『バッハ・チクルス全10夜』を例会に取り上げ、それまで借り物で済ませてきたチェンバロも自前を調達したのでした。同封の懐かしいチラシ(写真)によれば、ルンデの常連でもある日本のアーティストの錚々たる顔ぶれが並んでいます。
 添えられた手紙をちょっと引用しましょう。
「今、1985年9月8日、日曜日の朝。山本邦山さんの尺八例会(但しコンテンポラリー・シリーズで、ジャズに入るのかなナ、予約が数人しかない)があります。今書きたいのは、こういう例会、つまりお客が数人から、よほどの有名人がポピュラーなものを演奏しないかぎり、100人にはるかに届かないという例会を、スタートから4年あまりつづけている、ということです。21世紀になった時、ゼッタイぐらい生きているツモリはしているけれど、それはわからないけど、ルンデだけは、私たちの娘であるルンデだけはぜひ大きく育って欲しい、大勢の音楽愛好者に、愛され、育って欲しいと思います。(中略)……21世紀になったとき、もう少し、少なくとも赤字を出さないで例会ができたら、どんなに幸せか……それより、もっと理想としては、こういう小さな会場が、日常の音楽の場としてもてはやされ、第二,第三のルンデが必要となることなのだけれど、今の大会場崇拝は、いつ、この地方の大先生方からなくなるのだろう。
――とまァ、大変な現状を記しておきます。(以下略)」

 因みにこの年9月の例会では、「ルンデ大好きSQ」ラサール弦楽四重奏団三度目の来演『ベルク:抒情組曲をめぐって』のレクチャー(第一ヴァイオリンのワルター・レヴィン氏)付きコンサート、リコーダーのハンス・マリア・クナイスのレクチャー&コンサートとウィーン・ブロックフレーテ・アンサンブル店村眞積&池田菊衛(東京Q)デュオ、カーネギーホール・デビューを翌月に控えたヴァイオリンの古澤巌、バッハ・シリーズの2例会等々、10もの例会が並んでいます(つまり、こういう、室内楽、現代音楽、古楽のコンサートの引き受け手は、当時の名古屋には他に全然なかったという事です)。
 ルンデにとっても名古屋の音楽界にとっても、結局15年前と今で、状況は大して変わっていないということでしょうか。
 カプセルの手紙はこう結んでいます。
「この手紙が出てきたとき ―― 誰が見て、笑い、泣くでしょうか。
   時の流れの不思議 ――。」

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 2001年 1月第2週掲載

Teddy●「規範」というもの
 新年の一週間、新聞・TVが報ずるニュースには、残念ながらあまり明るいものが多くはありません。とこうするうち目に留まった1月7日付の朝日新聞『天声人語』、中央省庁再編に伴って触れ出された「大臣規範」を取り上げていました。言うなれば「大臣べからず集」なんですが、ヘェと思わされてしまいます、そんなことを今更……と。でも、今まで我々が「社会通念」だったと思っていたことがあっさり覆されていくこの頃、これもまた必要なのかも知れないと、納得してもみるのですが……。
 同欄によると、「関係業者の供応接待を受けること、職務に関連して贈り物や便宜供与を受けるなど、国民の疑惑を招くような行為をしてはならない」というくだりもあるそうな。これは「儀礼の範囲」という抜け道がある以上、やはり贈る方も「儀礼」なんぞ止めてしまえばいっそすっきりしてよろしいですナ。つまり、例えば単に習慣でしかない「お義理の中元・歳暮」を、日本中揃って無くしてしまう。「お義理」を好んで無理する人もなければ期待している人も無かろうから、結果として「意味のあるもの」だけが残る。とすれば、自ずとその「意味」が明確になり、納得のゆくものか、疑惑の対象になるのかはっきりする。
 「政治資金の調達を目的とするパーティーで、国民の疑惑を招きかねないような大規模なものの開催は自粛する」という一項もあるそうです。面白いですね、ここにも「国民の疑惑」という言葉がある。つまり国民とわれわれ(大臣・政治家)は判断の基準が違うのだと、一生懸命注意を促している(主張している)みたいで実に可笑しい。語るに落ちるとは、まさにこのことでしょう。もっと勘ぐれば、要は、国民の疑惑を招かないようにうまくオヤリよ、と助言しているわけですネ。
 そしてここにも、曖昧模糊とした基準が引かれています。たとえば、よくある「10万円以上の支出は、領収書を添付しなければならい」的な「規制」。だったら5万円二口に分ければなんでもないじゃないか。私も郵便局の窓口で、振替口座に貯まった入金を引き出そうとしたとき、「100万円を超える時はあらかじめ申し出てくれなければ困る」言われた経験があります。お察しの通り、じゃあと二回に分けたら(同じ日です)なんということもなく払い出すことが出来ました。いったい何なんだろう――。「国民の疑惑を招きかねないような大規模」とはどういう基準で誰が判定するのか、しかも「禁止する」ではなくて「自粛する」というのもミソ。「国民の疑惑を招かない規模」のものを沢山やる手だって勿論ありますし、所詮厚顔無恥な輩にとっては屁でもない(これはハシタナイ事を申しました)「規範」でしょう。
 同欄は、紳士の国イギリスにも「大臣規範」があるとも伝えています。そちらは徹底的で、公費出張で得た航空会社のマイレージサービスの処理まで事細かに言及しているとか。さすがと言おうか、そこまでしないと規範たり得ないという認識の問題か……。
 どうせやるなら徹底的にやればいい。曖昧模糊としてあるような無いような規制・規範がお得意のお国柄というのも、まことに淋しい限りです。

 同じ紙面のトップ記事――おぞましい事件がまたまた発生しました。「医療に携わるものは、自己の判断のみに基づいて毒物を患者に投与してはならない」という「規範」でも設けますか……。

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 2001年 1月第3週掲載

Teddy●たびたび蒸し返しますが……
 日本語の発音の現状について、またまた言いたくなりました。放送メディアから発せられる日本語のイントネーションは、本当にどうなってしまったのか。中でもレッキとした(筈の)NHKのアナウンサー諸氏から、あまりにも不可思議な発音の日本語を聞くのは、決して快いことではありません。
 先日もローカルニュースで「魚の養殖」について報じているようでした。『……そして蒸かした稚魚を放流』と迄聞いて、仰天して画面を見ました。よかった、稚魚は生きていた! これはどうあっても孵化したと発音して欲しいですね。でも、何とも不思議なのは、孵化したと書いてある(だろう、多分漢字で)原稿をすらすらと蒸かしたと読める感覚です。よしんばカナで書いてあったとしても、自分が伝える内容を承知していれば(正しく伝えようとする責任感を持っていれば、と言いたいところです)、この文脈の、ここに出てくる言葉は孵化以外にないというアタマが働かないのが情けない。
 別の日……建築家黒川紀章さんの業績を展示する催しの案内を報ずるのを聞いていると、盛んに「黒川市」「黒川市」とやっている。これは「黒川氏」と読んで欲しいもの。勿論、「半田市」と「半田氏」のように一緒になる場合もあるけれど、「黒川さん」は「黒皮さん」ではないでしょう。
 NHK教育テレビ……歌舞伎の時間。「心中天網島」の解説で、主人公の名を「自閉」「自閉」と繰り返されると、興ざめすること夥しい。以前も「仁左衛門」を「土左衛門」と同じイントネーションでやっていたけど……。
 新聞の読者コラムに、電気メーカーのワープロ製造中止を「日本語の乱れに、やっていけなくなった?」というのがありました。これ傑作。そう、日英双方向同時通訳や、日本語音声入力などのソフトが実用化されつつあるそうですが、これらに組み込まれる日本語の「標準」イントネーションはどう設定されているのでしょうか。「試演」と「支援」、「試算」と「資産」、「行司」と「行事」、「軌跡」と「奇蹟」はチャンと発音で区別されるのだろうか、あるいは「表現」「証言」などは、まさか「氷原」ではなくて「狂言」と同じに発音しなければいけないのじゃあるまいね、とか、「夜を徹して」は「ヨルヲテッシテ」、「あり得る」は「アリエル」でなければ認識してくれないとしたらどうしよう、とか、あらぬ心配に悩まされるのであります。
 そして、ほとんどすべて「尻上がり」に発音されているカタカナ語の処理はどうなるの? NHKテレビの連続ドラマのヒロインに抜擢された可愛い女の子が、インタビューに答えて堂々と「ドラマ」を「オカマ」と同じイントネーションでしゃべっている、そのアンバランスなイメージ……嗚呼。
 日本人が他に比べて異国語の修得を苦手とすると言われる理由の一つは、この「イントネーション不感症」にもあるのではないでしょうか。

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 2001年 1月第4週掲載

Teddy●異次元の世界?
 よくもまあ、次から次へと政官界の「カネ」「カネ」「カネ」問題が続出することである。『政治資金』なる名目でせしめた『口利き料』(そうでないとおしゃるが、客観情勢は明らかだし、なに、利に聡い企業が何の見返りも期待せずに多額の献金をするものか)は、まず政策研究に反映されることはなく所詮『選挙資金』でしかない。というのも、大体政府自民党筋の言うことを聞いていれば、政策の決定・実行は、常に「次の選挙」に与える影響が第一に勘案されるようで、とても国家・国民の将来を見据えているとは思えない。そりゃ確かに国会で過半数を制しなければ議案を通すことは出来ないだろうけれど、一方で過半数さえ取ってしまえばもうしめたものだ、という様子も見える。このあたりは、例の「文化会館建設騒ぎ」と一緒で、「こういうことをやるために」がなおざりで、まず「拠り所を作っちゃえ」。そして結果として、それで潤ったのはごく一部である。
 それはさておき、いま賑やかな「KSD問題」では、逮捕された小山議員に対して、自民党は「離党しろ」といっている。この手法は、徳川時代からの日本に定着しているもので、「それは当家には関わりなき者である」とトボケて「お家に傷が付かぬ」ことを第一とする遣り口である。めったに「詰め腹を切らせる」ことにはならないようだ。中国には「泣いて馬謖を斬る」という故事もあるのだが。
 その小山議員の師匠格の村上議員は、いちはやく顕職から身を引く亀の子作戦で、事態が静まるのを伺う気配である。一方貧乏くじを引いた(と、きっと思っているだろうが)のが額賀大臣。本人は飽くまで「淡々と」受け流したかったのだろうが、野党のみならず連立与党からも苦情が出て、二度目の大臣失職である。もっとも、秘書が千五百万もの金を(無造作に)机の引き出しに「預かって」いた(何のために?)というのは、並の感覚では理解し難いし、まただからといって返せばいいと言うものでもあるまい(専藷を見習うべし)。最初は「辞める必要なし」と言っていた福田官房長官もトーンダウンし、古賀幹事長にいたっては「永田町の論理と国民の論理は違う」から身を引かざるを得まいという趣旨の発言をしている。ここで可笑しいのは、「永田町の論理」が実在することを、当の永田町の住人が公に認めたことである。「永田町の論理」というのは、国民側から観て、どうもそういうものがあるんじゃないか、という皮肉であったはずだ。はしなくも、国会周辺というのは全く国民から遊離した世界であることを内外に明言したわけで、大変貴重であると同時に、これほど一般民衆をバカにした話もない。フィリピンでは、金まみれの大統領に周辺も愛想を尽かし、遂にピープルパワーの前に屈した。考えようによれば、これは国民と大統領が同じ次元に住んでいたから可能なのであって、日本のように別世界では望むべくのないということだろうか。
 もう一つ、どうしても判らないこと――外務省の外交機密費問題である。何億にものぼる外交機密費なるものが大変曖昧な処理をされることも不可解ならば、その不正流用がヤリ玉に上がっている当の本人、元 ナントカ室長の実名が一向に明らかにされないことも摩訶不思議である。まさか外交機密でもあるまいと思うのだが。一般公務員や民間人なら、この元室長の扱った額の何万分の一でも不正があれば、当然の事ながら容赦なく譴責される。
 政・官界とは、やはり並の世間とは異次元の世界のようだ。


 2001年 1月第5週掲載

Teddy●人が人を守る(2)
 痛ましい事故が発生した。酔ってホームから転落した男性を助けようとして線路に降りた日本人カメラマンと韓国人留学生が、ともども轢死したというのである。この勇敢な行為と悲惨な結末に心打たれぬものはあるまい。「ひと(自分)がひと(他人)を」守ろうとするする意識は、恐らく人間も含めた動物に本能的に備わっているものだろう。しかし実際にその意識が発動されるには、多くの場合、数々の個人のもつ条件の篩に掛けられるため、少なからず時間が消費される。今回の場合、勇敢な二人の頭にはまず「兎に角引き揚げよう」「ホームの下に空間があるはず」の思いが閃き、間髪を入れず決断がなされたのだろう。そのどちらも果たすことが出来なかった不運な結果については、言葉もない……。
 この事故の第一原因、男性がホームから落下したことについて、例によっていろいろ「問題点」が指摘されている。曰く「ホームに柵があれば」「当時駅員が居なかった」等々。まず、酔っぱらいを保護するために日本中の鉄道のホームに柵を設けることは誰が考えても無理でかつ無駄だし、よしんば作ったとしてもいろいろな不具合や不心得者に悩まされることは目に見えている。駅員の問題にしても、混雑する長いホームの端から端までをどれだけの人数でどうやって見張って、どう対処しろと言うのだろう。この種の「問題点」は事故が起こるたびに指摘される。例えば、他人の土地に無断で入り込んだ悪戯者が崩れた材木の下敷きになると、土地の所有者の「管理責任」が問われる。道ばたに落ちていた缶ジュースを拾って飲んで具合が悪くなると「毒を入れた犯人」が厳しく問われる。片方で、遮断機が降りていても警報が鳴っていても、線路に入り込む車が後を絶たず……。これらは、何よりもまず「ひと(自分)はひと(自分)が」守るべしということから出発すべきだろう。要するにあまりにも無防備でありすぎるのだ。何をしてもひと(他人)が守ってくれる? とんでもない。何故我々は、鉄道駅のホームで「電車が入ります。危ないですから白線の内側に……」と注意されねばならないのか。自分が何のためにホームに居るのかは当然承知している筈だから、もし「電車以外のもの」が闖入するのなら注意していただいた方が有り難いが、ともかく時間になれば「電車」は来るし、巻き込まれるのが嫌なら自分で判断して離れていればいいだけのことだ。あるいはホームで、また車内でまで「発車間際の駆け込み乗車は危険です!」と叫び続けられねばならないのか。全ての人がそれを馬鹿馬鹿しいと思って聞き流しているから、その聞き流しが習慣になって(オオカミが来た!の逆)、いくら本当に大事なことを親切に放送しても、誰もろくすっぽ聞いてはいないことになりかねない。でもそれでも、そうせざるを得ないのは、不心得な人間によって一旦何かが起こったとき、真の原因を脇へやって、まず「ひと(他人)」の責任を探す風潮が一般にあるから、それに対して「ちゃんと注意してやってるノニィ」と反論するための防衛策なのだろう。
 別に引き合いに出したくもないのだが、ヨーロッパの鉄道などはいっそ見事である。到着・発車時刻に遅れが出ようが、使用ホームが変更になろうが、結果が掲示板に表示されているだけで「ご迷惑をおかけします」などの余計な弁解放送は一切なし。皆自分の乗るべき列車についての情報は自分で獲得して行動し、列車は黙って入ってきて黙って出て行く。それで何事も無いのだ。
 (日本では)何故もっと、みんなが自分で自分に責任を持つように仕向けられないのか。あらゆる場面で、過保護、過剰サービスは、受け手には簡単に「当たり前のこと」になり、その有り難みを忘れて無責任、無自覚な風潮を助長するばかりである。
  【参考:人が人を守る(1)】

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