Weekly Spot Back Number
June 2001


92  混迷深める愛知万博 6月 4日版(第1週掲載)
93  「罪」と「罰」について考える 6月11日版(第2週掲載)
94  「21世紀型」万博とは? 6月18日版(第3週掲載)
95  梅雨の合間の雑感 6月25日版(第4週掲載)



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 2001年 6月第1週掲載

Teddy●混迷深める愛知万博
 愛知万博の最高顧問、堺屋太一氏のプラン発表が物議を醸しているようである。新聞で読んでみると至極もっともな発言でこちらは充分納得出来るのだが、関係者からは非難囂々のようだ。
 堺屋氏は「まず会場ありき」ではなく、「ストーリー」をという姿勢で取り組み始めている。「国際博」として位置付けるための基本構想を挙げたのだ。随分以前から招致運動を行ってきて、それに成功したにもかかわらず、内容につきては誰も何も考えようとせず、「第三者」にはいったい何がやりたいのか、さっぱり判らなかった。それがそもそも間違いの元なのだ。
 そして、やっと一つの具体案の基本が提示されるや、真っ向から反対の嵐である。「国際博か地方博かは、単に入場者数では区別できない」という論もあるようだが、やはり世界中から大勢の人が押し掛けてこそ国際博であろう。それに採算性についてどう考えているのか? 赤字になっても税金で補填すればいいという安直な考えがまかり通ってはいないか。その意味での一つの目安「東京ディズニーランドの一年間分に匹敵する入場者」を半年で確保する為には、型破りに大胆な発想でもければ追いつかないだろう。堺屋ストーリーはそこを突いていると思う。
 新聞の報道から伺い知る限り、関係諸方面はひどく感情的になって、ただただ拒絶反応を見せているのみのようだ。中でも彼の提案が時代錯誤も甚だしいと息巻いておられる向きがあるそうだが、そのお方がイメージする斬新なアイデアとはどんなものなのかお聞きしたいものだ。ここに、やっとのことに、折角一つの「案」提示されたのに、肝心の当事者がそれを叩き台にして前進しようとせず、批判だけしかしない「無責任な外野席」に回ってしまっては困る。堺屋氏が顧問就任の時言ったではないか「汗と涙を流そう」と。甚だ困難な状況の中にあることをもっと自覚して「汗と涙を流し」つつ議論(計画)を煮詰めて行く努力をして欲しい。そして、名誉ある撤退もまた、重要な選択肢であろう。
 それにしても、シロートには、会場へのアクセスの悪さ一つとっても致命的だと思えるのだが、その困難さを乗り越えてでも「辿り着きたい」と思えるほど素晴らしく魅力的なものとは何だろう? 堺屋ストーリーはまず措いて、万博を推進しようとしている方々が「自分の」胸の内に秘めた「理想の万博像」を、この際是非開陳していただきたいと思う。

 重ねて言うが、私は、そのものが時代遅れであるとも思う万博開催には反対である。
 それに、そもそもの発端が、オリンピック招致に失敗した敗者復活戦として挑んだ当時の行政の名誉欲とも考えられるからだ。

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 2001年 6月第2週掲載

Teddy●「罪」と「罰」について考える
 まさに身の毛のよだつような事件が発生した。小学校に闖入した男が包丁を振るい、児童や教師を多数殺傷した事件である。この事件に対しては様々な反応があったが、例によって社会問題としては精神を病む疑いのある犯人(この呼称は現段階では「法律的」には許されないようだが、ここではあまりにも歴然としている故に敢えてそう呼ぶ)の人権尊重に関連するものばかりで、被害者は世間一般の同情の中にあるが法的には待ったく無視されていると言ってよい。善良な市民たちはまさに、かの大デュマがエドモン・ダンテスの後身たるモンテ=クリスト伯に言わしめたように「(法律が)自分を罰するときしか関心を払ってくれない社会」に身を置いている。
 新聞の投書欄にも見られるように、一般市民にとって一番解りにくいのは、普段は一般市民と同様の社会生活を営みつつ、ある時歴然と反社会的行為が為された場合(しかも周到な準備の下に行われたにも拘わらず)、その時点で例えば「心神耗弱の状態」であったと認定されれば犯した罪が許容され、誰も罰せられることがないと言う点である。法律の専門家たる弁護士はその点をついて、大半の場合被疑者のために無罪を捷ち取るのだが、健全な被害者側は法的にはまったく無力であり保護されることもない。
 また、今回の事件を契機に「学校保護対策」がいっせいに動き始めたが、なにも被害を受ける可能性のあるのは小中学校だけではない。社会生活を営む個人それぞれが日常的な危険の中に身を置いているのだ。「猫を追うより皿を引け」という諺があるが、皿を引くのに限度があるときは、猫の方にも多少は遠慮してもらわずばなるまい(この表現は飽くまで引用による「ものの譬え」である。短絡的な言葉狩りにかからぬよう敢えて付け加える)。
 しかしながらそれはそれとして、実際に理不尽な行為があったとき、それを一方的に「無かったこと」にできようか。予防も大事だが、これには現実問題として限度がある。さすれば、残念ながら起きてしまったことには社会的な納得の行く対応(今回の問題に限らず、同じ社会に生きながら、一種の特権を持つことが無条件に許されるのかどうか)を図ることもまた重要であると考えるが、いかがであろうか。
 一つの例として、今回の被害者側に立つ我々一般市民が、ある日、忍耐の限度を超えるいわれのない侮辱を受けて思わずカッとなり、偶然手に触れた石塊を相手に投げつけて重傷を負わせたとしようか。それが全くの発作的な行動であっても(日常が正常な故)多分有罪は免れ得ず(ただ情状酌量はされるだろうが)、冷静に戻った当人は終生悔悟の念に苛まれ続けるであろう。法治国家としてせめて、精神を病む人たりとも犯した罪は罪として認め、しかし「心神耗弱の状態」を「情状酌量」する、位のことは出来ないものだろうか。

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 2001年 6月第3週掲載

Teddy●「21世紀型」万博とは何だ?
 本来今週のはじめに書かれねばならないこの項であるが、愛知万博最高顧問の堺屋太一氏の去就が気になって、ついついずれ込んでしまった。
 予想通り、堺屋氏の辞任で「関係方面」は快哉を叫んで意気盛んのようである。中でも主要な反応は「堺屋氏の提案は20世紀型万博の典型で、時代遅れも甚だしい」「市民参加の経緯を完全に無視している」「入場者数で成功を云々するのはおかしい」といったところであろうか。
 だが待てよ、必然的に環境破壊を伴う土木工事が主流であるこの形態こそ20世紀型の典型ではないのか? 市民参加というがそもそも名古屋に万博を招致することに関してどれだけ市民が参加したのか? 来場者からの入場料収入で採算がとれないことが明白な場合、当然税金で補填することになるのだが、それを前提にしていていいものなのか?(折しも新聞にロサンゼルス・オリンピックの極めて興味深い成功の経緯が紹介されていた。)
 万博に関する各種協議会をとりしきるお偉い先生方は、しきりに抽象的な言葉で「理想像」を主張なさるが、何故「21世紀型の万博」なるものをもっと判りやすく下々に説明してくださらぬか。私に言わせれば、環境破壊を必ず伴うこの土木工事スタイルこそ20世紀型の典型であると思うのだが。
 また、そもそもこの万博を誘致することに並々ならぬ努力された前愛知県知事氏が、今や「こんな万博をやりたかったのだ」という「夢」を真っ先に語る権利をお持ちの筈だが、いざ実行の段階でどこにも姿をお見せにならないのはどう云う訳か? 挙げ句に果てには「職制上引き継いだ」現知事氏からは「小さいけれどもキラリと光る万博を」などと言う判ったようで判らない発言が飛び出している。
 私は繰り返し言うように「万博反対」の立場だが、ちっとも見えてこない「21世型万博」のイメージに業を煮やして一つの考えを述べさせて貰おうか。例えば……「20世紀型」の典型は「ハード優先」であった、ということはいろいろな面で実証されている。ならば「21世紀型」は「ソフト優先」思考でどうだろう。それには最近も実施された「インパク」のスタイルを採用し、いまや盛りの「デジタル放送技術」をフルに駆使して大規模に展開する。多分在来型の場合でも、現時点では各展示ブースで『映像と音響』が重要なウエイトを占めることは明白である。ならばいっそインターネットを利用して、展示者は自国にあって「叡智」を傾けたソフトを随意に「発信」し、「入場者」も自宅で随時閲覧する。核心部分の閲覧には課金することも可能だろう。これならばその期間だけしか利用の見込めない交通機関や宿泊設備の建設等のムダは一切不要で、主催者側は巨大なサーヴァーを準備する必要はあるが、これは登録されたソフトごとそのまま貴重な資料として永久的に保存も可能だし、また何とでも転用可能であろう。
 部外者がそんないい加減な思いつきをホザクのは怪しからぬ、と関係方面からはお叱りを受けるだろうが、評論家ばかりが集まって叩き台一つ出てこない小田原評定にはうんざりしているので、市民として参加したつもりで敢えて発言してみたまでである。

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 2001年 6月第4週掲載

Teddy●梅雨の合間の雑感
 高温多湿は最も苦手とするところで、思考力が鈍り、このところめっきり作業能率が落ちている。言いたいことがいっぱいあるのに、筆が進まず、今回は結局ボヤキ節になってしまった……。

発想の転換は?
 高速道路の料金ゲートをノンストップで通過するシステムの実用化が近いそうだ。インターチェンジでの渋滞を緩和する策らしいのだが、多大な開発費と車へ搭載する端末をも含めた膨大な設備投資、それぞれのメンテナンスと当然起こってくる仕様変更の対応に伴う費用等、考えただけでもゾッとするが、この言う場合はその投資を「経済効果」として評価されるのが常である。
 そもそもの原因は「料金ゲートの存在」にあるのだから、これを廃止する方向への努力も真剣に為されて然るべきだろう。周知の如く欧米では自動車専用(高速)道路は無料が常識である。日本の高速道路は、それを「管理」しまた料金徴収に携わる組織の存在自体が、利権の宝庫であり同時に巨大な金食い虫になっているのではないのか?

「演奏」でなく「曲」
 あるレコード店(レコードを売っていなくてもやはりレコード屋さんだ)の人に聞いたのだが、コンサート会場でCDの即売をする場合、当日の演奏者のものがなくても、同じ曲が入っている他者の演奏のでも並べておくと結構商売になるそうである。まあそれはそれで、はたからとやこう言う筋合いではないのだが、穿った見方をすれば、日本の音楽ファンの『四季』好きにも通じるかもしれない。
 元来日本では、3人(ピアノ・ソロまたは著名ソリストのピアノとのデュオはいいが、ピアノ・トリオはもう「室内楽」として敬遠される)から30人くらい(派手な大管弦楽はいい)の人数でのコンサートは不人気であったと思う。そこへあの《イ・ムジチ》がやって来て、素晴らしい『四季』を聴かされて目から鱗が落ちた結果は《イ・ムジチの「四季」》ではなくて『四季』だけが残り、その後来日する室内合奏団は、どのグループもそれを演奏せざるを得なくなった……? もっと穿てば、ヴァイオリンで「りんご追分」を弾いても大ヒットするこの頃である。
 そういえば、音大で学生に自分の勉強している曲の「CDを聴いたか?」と問うと「聴いた」と答が戻ってくるまでは殊勝だが、「で、誰の演奏?」には「……!」が大半であるのもあるいはこの流れか。
 そうだ、かつて「チャイコの**」と呼ばれながら「大成功」した呼び屋氏がいたっけ……。

日本人は外国語が不得手?:
 テレビのニュース番組でアナウンサー氏『氷の塊をで(!)削っていきます』。仰天して画面を見ると「氷の芸術」の実況。しゃべることを職業としている人たちにますます頻繁になっているこの現象(以前にも書いたが、資産と試算、商品と賞品、極めつけは「孵化した」と「蒸した」の混同!等々)は、同音異語の多い日本語では原稿を目で見ていない聞き手が、イントネーションから漢字を想像しながら意味を理解しているということをどう考えているのだろうか、と疑問に思う。そしてこういう「音」への無頓着さが、日本人の外国語習得の苦手であることにも通じ、ケイタイ公害や、野球場での気狂いじみた応援などにも繋がってはいないか?などと、ついつい気に病んでしまうのだ。
 先のイントネーションの問題、「四声の国」中国ではどうなのだろうか。

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