87 | なぜ、待たないのだろう | 4月30日版(第1週掲載) |
88 | 云うても詮無いことながら | 5月 7日版(第2週掲載) |
89 | 「付加価値」とは何? | 5月14日版(第3週掲載) |
90 | 「100人」の壁 | 5月21日版(第4週掲載) |
91 | プロ中のプロ | 5月28日版(第5週掲載) |
2001年 5月第1週掲載 |
2001年 5月第2週掲載 |
2001年 5月第3週掲載 |
![]() 「ケイタイの着メロに64和音登場!」と新聞が大々的に報じている。それがその機種を他よりも売れる商品とするための所謂「付加価値」なのだろう。 思うに、電話という機械が必要とする機能からすれば、本来着信を知らせるには適当な信号音さえあればいいのであって、それがメロディになったりそれにまた伴奏がついたりすことは必要条件ではない。当然奇妙なメロディまがいのものが聞こえるとドキっとする。最近では、新幹線の中でショパンの「英雄ポロネーズ」を奏でるヤツに遭遇した。ビジネスマンらしき彼のケイタイはひっきりなしに呼び出され、その都度彼はショパンを奏でつつ通路を小走りにデッキに向かうのである。しかもそのショパンが、物理的に超正確なテンポで、且つ何のアタックの変化もなくブーブーと「唯ひたすら鳴る」のみだから余計耳障りなのだ。(これらについては先に第14項、第77項でも述べた。) まあ今は「出来ることは何でもやろう」の無節操・無反省時代(テレビのノゾキ、大喰らい、やらせドキュメント等々。インターネットの殺人者募集、麻薬毒薬通信販売、取り込み詐欺サイト等々。カー・ナヴィゲーション・システムに情報端末機能を満載する=ダレがイツ利用すると思ってんの?)だから、何かを発案したとき、結果としてそれがどんな「公害」を振り撒くことになるかなどに気配りしていたら生存競争に負けると言うことであろうが、なにやら「アサマシキ」世ではある。 「音楽業界」で云うと、美人系(今様に云えばヴィジュアル系?)のクラシック器楽奏者が「歌のない歌謡曲」を演奏するCDが大々的なキャンペーンに乗って売り出され、一旦「話題」となると、今度はその演奏者が出演するコンサートが盛況を極める、という現象も定着するようになった。先日もテレビ番組でそっち系のプロデューサー氏が「音楽的なことは脇へ置いて、兎に角売り込むこと」などと宣っていたが、完全に勝てば官軍の世界になりつつある。同様に、テレビのコマーシャルやドラマなどに顔を出して、それを前面にだしてPRすればコンサートのキップが売れることは常識になった。すべて本質よりも「付加価値の勝利」である。 本来の意味での「付加価値」とは、何だったのであろうか。何時からか我々は「付加価値モドキ」にスッポリ覆われたしまったようだ。 |
2001年 5月第4週掲載 |
2001年 5月第5週掲載 |
![]() 何の世界でも、所謂「プロ」と「アマ」の線引きは難しい。何を根拠にするかという基準がそもそも定め難いからだ。 「professional」の頭を採って「プロ」と呼ぶとしても、じゃあ一体何が professional なのかということになる。それを生業=職業として金銭を獲ているのがプロ、余技であるのがアマ、というのが一番簡単な定義であろう。そしてそこを基準として、とりわけ傑出したものを「プロ中のプロ」と呼び、それと同等の「プロ級のアマ」なる呼称が生ずる。ここでは、その(下線の付された)プロについてちょっと述べようと思う。 先週末(5月25日〜27日)ハンガリーのバルトーク弦楽四重奏団がスタジオ・ルンデで2回の演奏会と室内楽公開レッスンを行った。因みに、彼等はルンデ創立の1981年以来、20年間で10回目の来演であり、今回の演奏会を含めてそのステージ数は21に及び、公開レッスンは8回を数える。 彼等と接し続けてきて痛感させられるのは、その「プロ意識」と言う言葉でしか表せない振る舞いである。中でも一番打たれるのはその練習風景である。このことについては以前このコラムに取り上げたことがあるが、敢えて再度言及したい。すでに何度となく演奏してきたレパートリーについても、四人が対等に主張し合い、激論を戦わせている様子がしばしば見られる(惜しむらくはハンガリー語なので、その内容は推し量るしかないが)。二時間から三時間ほぼ休み無く続くリハーサルを通して、そこには終始ピンとはりつめた緊張感が漂っていて、第三者がおいそれと声を掛けられる雰囲気ではないのだ。 室内楽公開レッスンに於いても、彼等の真摯な態度は変わらない。音楽に対する厳しい要求は、言葉こそ穏やかではあるが容赦なく受講者に突きつけられる。音楽への取り組みの本質的な問題に対する助言も、解決すべき技術的な具体策も、努めて抽象的な表現を避けて提示されまた身を以て範奏されるため、聴講する一般音楽愛好家にも一々腑に落ち、教えられる想いがするのだ。彼等のレッスンの中で示された様々な指導は、ユーモアのなかにも強い説得力をもつものでその例は枚挙に暇がないが、二・三を例示しよう。 ●ベートーヴェンを受講したグループのに『あなた方が今演奏したその小節には rit.(段々ゆっくりにする意味の記号)は書いてありません。なのに何故そうしたのですか?』。四人がしばらく話し合ってから『みんなで相談して決めました……』。すかさずメゾー氏『どうしてその場にベートーヴェンを呼ばなかった?』 ●ハイドンの演奏を止めて、ハルギタイ氏がやおら客席を向いて叫ぶ『皆さん、いまこの曲のテーマが聴こえましたか? 私には聴こえなかった』。 ●コムロシュ氏が第一ヴァイオリン奏者に模範を示しながら『そこのところはこうしたらどうでしょう。わたしも30年間あなたと同じ弾き方をしてきたが、今はそうでない方が良いと思っています』。 余談ながら、レッスンを通じて、特に若い学生のグループは、講師から質問されたことにはかばかしく答えられなかった。これは普段の学習が受動的に過ぎることを表しているようだ(かつてチェロのペルガメンシコフ氏が来演の折りに個人的なレッスンをしたのに立ち会ったが、開口一番の「あなたはなぜこの曲を選んだのですか?」に返答が無く、ついで「この作曲家について調べましたか?」にも無言。先生も匙を投げたことだった)。また、これは京都フランス音楽アカデミーに講師として招かれているパリ音楽院の教授達も洩らしていたのだが「日本でのマスタークラスには、何故学生ばかりが来るのだろう。プロは勉強しないのか?」という指摘も気にかかる問題である。 ついでに、今回の公開レッスンを延々6時間に亘り聴講したのは専ら「音楽好きの人」たちばかりで、音楽を指導する立場にある人は把握した限りでは2名にすぎなかった。ジャンルを問わず音楽形成に必要な問題を惜しみなく解き明かしてくれる「プロ中のプロ」から学ぼうとする「所謂プロ」が如何に少ないか、なんとも淋しい限りだった。 もう一つついでに、その当日最も素晴らしい演奏と指導に対する反応の良さで見守る者を惹きつけたのは「このえ弦楽四重奏団」であった。彼等は京都大学出身の男性4人で、いわゆる専門教育を受けたわけではないが、自らの主張を堂々と表現する気迫と技術を身につけていた。「あの人たちはプロなんですか?」という一般聴講者からの質問には複雑な想いを抱かざるを得なかった。 要するに音楽家の「プロ」とは、なんの衒いもなく音楽に正面から立ち向かって行く姿勢が終始一貫しているということであろう。バルトーク弦楽四重奏団はいつもそれを身を以て示してくれる。そしてその彼等も、ステージを降りれば陽気で人懐こい「バルトーク・ボーイズ」としてみんなと自然体で接している。これも本当の「プロ」ならばこそである。 |