Weekly Spot Back Number
May 2001


87  なぜ、待たないのだろう 4月30日版(第1週掲載)
88  云うても詮無いことながら 5月 7日版(第2週掲載)
89  「付加価値」とは何? 5月14日版(第3週掲載)
90  「100人」の壁 5月21日版(第4週掲載)
91  プロ中のプロ 5月28日版(第5週掲載)



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 2001年 5月第1週掲載

Teddy●なぜ、待たないのだろう
 自民党総裁予備選挙は、大方の予想通り脱派閥を標榜した小泉氏が大勝し、本選でも文句無く支持を集めて、新政権が発足した。
 その新政権についての本題に入る前に、総裁選を通しての報道機関の取り扱いについて、一つどうしても気になることがあった。それは、候補者を呼ぶにシツコク肩書きが付けられていたことだ。この選挙が、自由民主党の党員から立候補者が出て、自民党員が選ぶのだから、亀井氏の党「元」職名は我慢するとしても、他の三人をことごとに現、または元大臣として呼ぶのには大いに抵抗を感じた。彼等は「内閣の閣僚として」立候補しているのではないはずである。亀井氏、小泉氏、麻生氏で何故いけないのだろう。この伝で行くと、全くの新人、過去に閣僚経験はもとより、党のいかなる役職にもついたことのない人物の場合はどうするのだろう。これは一種の差別であろう。
 これと同類の話だが、犯罪、裁判関連の報道でもこの「肩書き」が怪しげなニュアンスを醸し出す。例えば「何々事件で起訴された当時の**大学副学長何某被告は……」と始まりながら、次のセンテンスでは「そして何某元副学長は……」となるのである。何某元副学長と言う表現と元副学長何某とでは全然受ける感じが違うのは自明の理だ。前者は通常は「敬語」としての表現に使われる筈である。さらに「元」でもなんでも肩書きのある者はまだいいが、いわゆる専業主婦や、かつて職業経験の無い場合は一体どう呼ぶのだろう。百歩譲って、たとえ問題が当事者の当時の職業に関係があるとしても、敬称とまぎらわしい肩書きを付けるのは不自然である(ついでに、報道によく使われる有識者文化人なども差別用語のようで……と、ついつい無識者非文化人ドモは思ってしまう。Hi )。
 閑話休題。
 新閣僚の顔ぶれを伝える報道に対して、モノ申したい。「脱派閥を宣言した小泉氏の勝利」を伝えるマスコミが、閣僚の名前に相変わらず所属する派閥名を添えるのは、一体どうしたことか。連立内閣だから党名だけは必要であろうが。これでは、折角期待出来そうな政治改革に、真っ向から水をかけるようなものではないか。一方、小泉氏が民主的な方法で選ばれたことを受け容れるべき筈の当の自民党員の中にも、「森派が一番多く入っているから、脱派閥になっていないじゃないか」というトンチンカンな文句を付けるヤツがいるのには呆れた。また新聞も、それを素直に「報道」しニュース解説番組では「橋本派はずしが顕著ですが……」などとやっている。「脱派閥」というのは派閥に属さない者だけで組閣しろと言うことなのか。誰がどこの派閥に属するかということを前提に見れば、どうやったって何処かの派閥が一番多くなることだろうし、それを避けて「均衡型」を採ればそれこそが旧来の派閥重視になる。皆が、小泉総理が虚心坦懐選んだ人物の現所属派閥が、たまたま「森派」に多かったというだけ、と割り切った見方をしない限り、「新しい流れ」は生まれっこない。要はその内閣がどう機能して行くかであり、それを見極めるにはどうしても或る程度の時間の推移が必要である。もしマスコミも本気で派閥政治が良くないと言うのなら、徹底して派閥を無視して報道してみたらどうだろう。常に政治家「個人」がどう行動するかに注目してもいい筈である。
 また、新閣僚の記者会見で耳にしたのだが、田中外務大臣に対して「お父上のカタキ打ちが出来たとお思いですか」というバカな質問が出た。さすがに田中氏は「私はそれほどウエットではありません」とあっさり切り捨てていたが、そんな次元でしか政治を捉えようとしない空気がこの期に及んでもまだ存在すること自体、国政の現状を著しく緊張を欠いたものにしようとしているのだと猛省すべきである。
 新閣僚を個人的に中傷する議員が自民党の中にいるのも驚きである。お互いが、理解、尊敬、信頼、協力の念を抱き合わない我利ガリ亡者どもの集団ほど醜いものはないのだ。
 私は自民党を支持するものではないが、今の政界を見るに野党に付託できる情勢にはなく、結局は自民党に政権を任せざるを得ない状況であるがゆえに、せめてその党に大改革が起こることを望むのである。小泉首相には、当面の景気対策などと言うケチなことではなく、日本の政治を根本から変えるような変革を意図し実行して欲しいと思う。少なくとも今は、僅かに見えた光明でも見守るだけの忍耐が必要な時であると考えるのだが。

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 2001年 5月第2週掲載

Teddy●云うても詮無いことながら
◎その1:大型連休の最中にも様々な「事件」が起こる。中でも、北朝鮮の金正日主席の長男とおぼしき人物が、偽造パスポートで入国を計ったというニュースが大変興味深かった。これに対する日本政府の姿勢は、テレビの時代劇に見立てるとこんな具合か。――国境の関所を偽手形で通ろうとする怪しげな人物を拘束する。「すは隠密?」と、取り調べを行おうとするうち、あれは将軍家の血筋を引く貴公子の忍び旅ではないか、と言いだす者がいて、下手に動いて幕府のご機嫌を損じてはと、役人たちが対応に右往左往する……。
 結果としての処理は「外交上の配慮」とやらで、VIP待遇で北京までお送り申し上げたようだが、それでも「通常の強制送還手続きに従った」と言う説明では納得しかねる。全体、偽造パスポートで不法入国を計った人物を、日本の法律に基づいて扱うことに、何故躊躇しなければならないのか? よしんば日本がどのように「配慮」してみても、先方が恩に着ることなど絶対にないのだ。「これで外交上の貸しを作った」などの評価は噴飯ものである。浪花節的義理人情や、大時代な腹芸なんかが世界に通用するなどと云う甘っちょろさでは、日本という国家は今に消滅してしまうだろう。そして、相手が「主席の長男」だから、などという考えは、要するに肩書きや学歴などによって人を差別する風潮の典型でしかない。

◎その2:注目の小泉新首相の施政方針演説。国会中継をテレビで見ていると、ひっきりなしのヤジである。そういう連中はちっともじっくり聞いていないのだ。日本のプロ野球の私設応援団の、ゲームの展開状況と無関係なラッパと太鼓の空騒ぎと同じで、自分がその場にいることの意味を、本当に理解しているのか甚だ疑わしい。もっとも野党側は、今回ばかりは「何でも反対」的姿勢は採っていないようだから、いっそ小泉氏(自民党ではない)と政治改革を中心とした路線で接点があれば、何も公明・保守だけに任せずに「閣外協力体制」で大いに荷担してみたらどうだろう。政治家の皆さんに、一致協力して「日本の現状を破壊的再構築する」とイチかバチかの勝負に出る気概が欲しいものである。

◎その3:先週、肩書きのことについて書いたが、早速その典型的な事例を新聞に見た。95歳の老父が寝たきりの娘(65歳)の介護に疲れ、前途を悲観して絞殺し自らも自殺を図ったという悲惨なニュースと、行政の長がその地位を利用して犯していた違法行為の実体が、同じ紙面に報じられていた。前者は(無職である故)「**容疑者」「**容疑者」と執拗に繰り返され、後者は「**市長」「**副知事」と敬称付である。並べて読んでいると、前者に対しては強い憎しみが(心情的にはこんな哀しい事態はない)、後者に対しては(最も恥ずべき行為であるにも拘わらず)幾分か寛容の気分がその裏にあるのではないか、と、つい感じてしまう表現である。これは(前述の「その1」の場合と機を一にする)差別的発想以外のなにものでもない。ついでのことに、車線を逆走し対向車と正面衝突、相手を死亡させた人物を「**さん」と呼び、明らかに殺害と金品強奪を行った特定人物を「強盗殺人の疑い」で追跡するのも、釈然としない報道の仕方である。これら「話題の人物」についての表現法に、その世界ではどんな「申し合わせ」があるのだろうか。是非とも知りたいものである。

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 2001年 5月第3週掲載

Teddy●「付加価値」とは何?
 「ケイタイの着メロに64和音登場!」と新聞が大々的に報じている。それがその機種を他よりも売れる商品とするための所謂「付加価値」なのだろう。
 思うに、電話という機械が必要とする機能からすれば、本来着信を知らせるには適当な信号音さえあればいいのであって、それがメロディになったりそれにまた伴奏がついたりすことは必要条件ではない。当然奇妙なメロディまがいのものが聞こえるとドキっとする。最近では、新幹線の中でショパンの「英雄ポロネーズ」を奏でるヤツに遭遇した。ビジネスマンらしき彼のケイタイはひっきりなしに呼び出され、その都度彼はショパンを奏でつつ通路を小走りにデッキに向かうのである。しかもそのショパンが、物理的に超正確なテンポで、且つ何のアタックの変化もなくブーブーと「唯ひたすら鳴る」のみだから余計耳障りなのだ。(これらについては先に第14項第77項でも述べた。)
 まあ今は「出来ることは何でもやろう」の無節操・無反省時代(テレビのノゾキ、大喰らい、やらせドキュメント等々。インターネットの殺人者募集、麻薬毒薬通信販売、取り込み詐欺サイト等々。カー・ナヴィゲーション・システムに情報端末機能を満載する=ダレがイツ利用すると思ってんの?)だから、何かを発案したとき、結果としてそれがどんな「公害」を振り撒くことになるかなどに気配りしていたら生存競争に負けると言うことであろうが、なにやら「アサマシキ」世ではある。
 「音楽業界」で云うと、美人系(今様に云えばヴィジュアル系?)のクラシック器楽奏者が「歌のない歌謡曲」を演奏するCDが大々的なキャンペーンに乗って売り出され、一旦「話題」となると、今度はその演奏者が出演するコンサートが盛況を極める、という現象も定着するようになった。先日もテレビ番組でそっち系のプロデューサー氏が「音楽的なことは脇へ置いて、兎に角売り込むこと」などと宣っていたが、完全に勝てば官軍の世界になりつつある。同様に、テレビのコマーシャルやドラマなどに顔を出して、それを前面にだしてPRすればコンサートのキップが売れることは常識になった。すべて本質よりも「付加価値の勝利」である。
 本来の意味での「付加価値」とは、何だったのであろうか。何時からか我々は「付加価値モドキ」にスッポリ覆われたしまったようだ。

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 2001年 5月第4週掲載

Teddy●「100人」の壁
 先日或る中堅ピアニストのリサイタルを聴きに行った。
 約400人収容の会場の8割方が埋まってなかなかの盛況である。さて、コンサートが始まってみてちょっと驚いたのは、客席の咳の多さであった。中でもかなり前方で二人ほどが、ほぼ10秒に一回という頻度で派手に競演している。しかも、ご本人たちは誰憚ることなく「解放」で気持ちよく発散しているようだ。こうなるとこちらも音楽を聴きながら、いつ次の「ゴホン」が来るか、いや今度は間が長いな、などと気になって、とてものことに集中しきれなくなってくる始末だった。彼等にとってはコンサート会場もつまりはお茶の間感覚で、ステージはテレビの画面なのだろう。
 このことは、最近のスポーツ競技場やイヴェント会場への巨大スクリーンの普及も一役買っているように思える。確かにグラウンドの選手たちや遠方のステージの主役達は、自分の位置からは決まった方向で、しかも小さくしか見えないだろう。だからスクリーンに自分の見えない角度の大写しが出れば悪く無いのは解る。だがそれは、所詮カメラの目を通した平面映像で、ただ受け取ることができるだけだ。つまりは、自分と映像に登場する主人公たちとは異なる次元にいる……目の前で同じ空間を共有しているにも拘わらず……。
 リサイタルに話を戻して、演奏そのものは誠実で好感の持てるものだっただけに、心ない一部聴衆のもたらした会場の雰囲気は大変残念だった。後日演奏者にその話をしたら、「実は……」と彼女も言うのである。「何事があっても、平静でいなければならない、とは判っていても、やっぱり気になってしまって……。どうでもなれと投げ出したいような気持ちと戦っていました」。とにかくその場では集中を切らすことなく弾き終えたのだが、何ともお気の毒なことであった。
 千人を越すような大会場であれば、楽章間のにぎやかな咳払いや、絶え間のない密やかな騒音の連続は、もうあきらめざるを得ないだろう。が、今回取り上げたような現象は、多分、本来コンサ−トそのものを聴きたくて来たわけではない人達によって引き起こされているのだと思う。純粋に音楽会を聴きに来たのであれば、自らよい環境を保とうとするはずである。しかしそれでも、人が多く集まれば様々な現象が起こる。ルンデの例会はまず遅刻する人が皆無と言っていいくらい熱心なお客の集まりだが、それでも100人を越える「大入り」になると、微妙に事態が変化し始めるから妙である。また、つい先週ルンデを貸しホールとして利用してくれた或る古楽器奏者の自主コンサートは、数こそ90人そこそこの聴衆であったが、モニターを通して感じ取る会場内の雰囲気の良さ、聴き手の反応の良さはなかなかのものであった。
 そして、ついでに思い出したのは十年近くも前の話、ハーゲン弦楽四重奏団の演奏会をマネージした時のこと。まだまだ日本では無名に近くしかもコンテンポラリーなプログラムだったせいもあり、あの大きな愛知県芸術劇場コンサートホールに250名足らずの聴衆だったが、場内の静謐ぶりといったら素晴らしく、「はじめて真のピアニッシモを聴いた!」という興奮したアンケートもあり、アーティストも3曲のアンコール演奏を行って聴衆の「共同作業」に報いたのである。

 「100人の壁」というのは、これらの経験から得られた一つの譬えなのだ。

蛇足:願わくば(特に、若い)アーティスト(の卵)たちは、親類縁者への内覧会ではなくて、一般市場への見本市の感覚で自主コンサートに臨んで欲しい。
 親しい人達の善意に満ちた賞賛も快いものであろうが、自らの判断で来聴してくれた見知らぬ音楽好きの心を捉えることにこそ、一層の配慮示していただけたらと願うものである。
 「招かれざる客」と「招かるべきでなかった客」の違いは重大である。

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 2001年 5月第5週掲載

Teddy●プロ中のプロ
 何の世界でも、所謂「プロ」と「アマ」の線引きは難しい。何を根拠にするかという基準がそもそも定め難いからだ。
「professional」の頭を採って「プロ」と呼ぶとしても、じゃあ一体何が professional なのかということになる。それを生業=職業として金銭を獲ているのがプロ、余技であるのがアマ、というのが一番簡単な定義であろう。そしてそこを基準として、とりわけ傑出したものを「プロ中のプロ」と呼び、それと同等の「プロ級のアマ」なる呼称が生ずる。ここでは、その(下線の付された)プロについてちょっと述べようと思う。
 先週末(5月25日〜27日)ハンガリーのバルトーク弦楽四重奏団がスタジオ・ルンデで2回の演奏会と室内楽公開レッスンを行った。因みに、彼等はルンデ創立の1981年以来、20年間で10回目の来演であり、今回の演奏会を含めてそのステージ数は21に及び、公開レッスンは8回を数える。
 彼等と接し続けてきて痛感させられるのは、その「プロ意識」と言う言葉でしか表せない振る舞いである。中でも一番打たれるのはその練習風景である。このことについては以前このコラムに取り上げたことがあるが、敢えて再度言及したい。すでに何度となく演奏してきたレパートリーについても、四人が対等に主張し合い、激論を戦わせている様子がしばしば見られる(惜しむらくはハンガリー語なので、その内容は推し量るしかないが)。二時間から三時間ほぼ休み無く続くリハーサルを通して、そこには終始ピンとはりつめた緊張感が漂っていて、第三者がおいそれと声を掛けられる雰囲気ではないのだ。
 室内楽公開レッスンに於いても、彼等の真摯な態度は変わらない。音楽に対する厳しい要求は、言葉こそ穏やかではあるが容赦なく受講者に突きつけられる。音楽への取り組みの本質的な問題に対する助言も、解決すべき技術的な具体策も、努めて抽象的な表現を避けて提示されまた身を以て範奏されるため、聴講する一般音楽愛好家にも一々腑に落ち、教えられる想いがするのだ。彼等のレッスンの中で示された様々な指導は、ユーモアのなかにも強い説得力をもつものでその例は枚挙に暇がないが、二・三を例示しよう。
●ベートーヴェンを受講したグループのに『あなた方が今演奏したその小節には rit.(段々ゆっくりにする意味の記号)は書いてありません。なのに何故そうしたのですか?』。四人がしばらく話し合ってから『みんなで相談して決めました……』。すかさずメゾー氏『どうしてその場にベートーヴェンを呼ばなかった?』
●ハイドンの演奏を止めて、ハルギタイ氏がやおら客席を向いて叫ぶ『皆さん、いまこの曲のテーマが聴こえましたか? 私には聴こえなかった』。
●コムロシュ氏が第一ヴァイオリン奏者に模範を示しながら『そこのところはこうしたらどうでしょう。わたしも30年間あなたと同じ弾き方をしてきたが、今はそうでない方が良いと思っています』。

 余談ながら、レッスンを通じて、特に若い学生のグループは、講師から質問されたことにはかばかしく答えられなかった。これは普段の学習が受動的に過ぎることを表しているようだ(かつてチェロのペルガメンシコフ氏が来演の折りに個人的なレッスンをしたのに立ち会ったが、開口一番の「あなたはなぜこの曲を選んだのですか?」に返答が無く、ついで「この作曲家について調べましたか?」にも無言。先生も匙を投げたことだった)。また、これは京都フランス音楽アカデミーに講師として招かれているパリ音楽院の教授達も洩らしていたのだが「日本でのマスタークラスには、何故学生ばかりが来るのだろう。プロは勉強しないのか?」という指摘も気にかかる問題である。
 ついでに、今回の公開レッスンを延々6時間に亘り聴講したのは専ら「音楽好きの人」たちばかりで、音楽を指導する立場にある人は把握した限りでは2名にすぎなかった。ジャンルを問わず音楽形成に必要な問題を惜しみなく解き明かしてくれる「プロ中のプロ」から学ぼうとする「所謂プロ」が如何に少ないか、なんとも淋しい限りだった。
 もう一つついでに、その当日最も素晴らしい演奏と指導に対する反応の良さで見守る者を惹きつけたのは「このえ弦楽四重奏団」であった。彼等は京都大学出身の男性4人で、いわゆる専門教育を受けたわけではないが、自らの主張を堂々と表現する気迫と技術を身につけていた。「あの人たちはプロなんですか?」という一般聴講者からの質問には複雑な想いを抱かざるを得なかった。

 要するに音楽家の「プロ」とは、なんの衒いもなく音楽に正面から立ち向かって行く姿勢が終始一貫しているということであろう。バルトーク弦楽四重奏団はいつもそれを身を以て示してくれる。そしてその彼等も、ステージを降りれば陽気で人懐こい「バルトーク・ボーイズ」としてみんなと自然体で接している。これも本当の「プロ」ならばこそである。

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