Weekly Spot Back Number
September 2001


105  添削? 校訂? それとも?  9月 3日版
106  「900円コンサート」に思う 9月10日版
107  お粗末の極致。この「お役人の危機管理意識」 9月17日版
108  いま我々に出来ること 9月24日版



Runde  このページへのご意見、ご感想を!  Pippo


【105】 2001年 9月 3日号

Teddy●添削? 校訂? それとも?
 今更言うまでもないのだが『文章を書く』事は実に難しい。一旦書き上げた文を推敲しながらも、自分の意を相手に間違いなく理解して貰うのは至難の業だと、つくづく思い悩まされる。ましてや、他人の書いたものに手を入れるなど、不可能に近い。
 いま仕事柄、他の人の書いた文章を扱う場合が多いが、明らかな誤字・脱字、文意を「より明確にする」ために必要と思われる句読点の変更(この句読点というのは実に問題であって、その打ち方で、意味するところや味わいがまったく変わってしまう場合がある)以外は、極力原文のママとするよう心掛けている。書き手に対する読者のイメージを損なわない為である。
 時折視るNHK教育TVの「講座」もので、「俳句」の時間に組まれた「添削コーナー」はなかなか興味深い。選者によってまったく「添削」の視点が違うのである。
 或る女性選者は、添削の対象として選んだ句に対して、文字の上ではホンのちょっとの修正を加えるだけで、句全体のリズムもよくなり、意図したであろう表現内容もズンと通り、なにより「作品」としての出来映えの差に思わず頷いてしまう。
 片や某男性選者は、選んだ句に対するテニヲハの訂正が専らで、中学の国語の先生然としている。こちらは「……で、どうしたの?」と面白く可笑しくもない。
 思うに、前者は「磨けば光る素材」を見出しているが、後者は表面的に「目に付いた誤り」を取り上げていると言えるだろう。その差は実に大きい。
 それにつけても思い出すのは、もう40何年も昔の大学2年当時、ひょっとしたきっかけで音楽に首を突っ込んだ時巡り会った師のことである。作曲と指揮を学んだ故・山本直忠教授(あの山本直純氏の厳父)は、とにかく「曲」を書かせ、それを丁寧に検分した末の評価は、いつも決まってのように「ウン、なかなかいいね。もっと書き給え」であった。そしてさりげなくいろいろな作曲家や作品についてのエピソード等を語って、アドヴァイスとしてくれたものである。教授は、決して書かれたオタマジャクシを「手直し」することはなかった。
 マスコミや出版社などは、読ませるにせよ聞かせるにせよ、文章表現には当然神経を使っている筈なのだが、時折首を傾げたくなることがある。
 最近お目に(お耳に?)かかったテレビ局のニュース原稿のオカシイ例。かの「防災の日」の全国一斉防災訓練関連の報道で、ある地方自治体が発令した抜き打ち非常召集に応ずる職員の姿の紹介に「ネクタイを着けずに登庁した人も……」というのがあったが(非常の際にネクタイの有無など関係あるまい)、これを書いた人、読み上げた人の意図と感覚を疑うと同時に、内容に万全を期するための第三者による「校閲」という制度は無いのかと不思議に思った。
 「校閲」といえば、いつも引っ掛かっていることがある。それは、文章表現に関する新聞社の対応の仕方で、どうやら複雑且つ厳重な内規が存在するようなのだ。
 例えば、愛知県芸術劇場コンサートホールでのコンサートに関する記事には、例外なく「名古屋市東区東桜一の愛知県芸術劇場……」とくる。が、この「名古屋市東区東桜一」はいったい何の役に立つのか? 諸種表記のお役所的正確さと、市民の利便性とが一致しない例はいくらでもあることは、皆が先刻ご承知である(インターネット・ドメインの例)。別に「名古屋の」でいいじゃないか。重大事件でも起こってニュース的精確さが要求される場合ならいざ知らず、その劇場へ行きたい人にとっては、この「名古屋市東区東桜一」はまず役に立たない。いっそ「名古屋栄の」と言った方が余程実際的だ。「栄」が現在は行政区画上の地名だとは言っても、かつての「栄町」交差点の傍にあるあのデカイ建物を、いまさら「東桜」だと頑張ってみても全然無意味である。関心を持った読者に欲しいのは精確な住所表記(手紙を出せるように郵便番号まで書いてあれば格別)ではなくて、むしろ行ってみるための「所在場所」なのだ。「名古屋市東区東桜一」では、たとえ名古屋の人間であっても、ましてや名古屋に来たことがある他都市の人にとっても、大方は想像もつかないだろう。
 『読者投稿欄』では、「添削」だか「校閲」だかが罷り通る。例えばタイトルは、ほとんど画一化されていて、すべてが投稿者の付けたものとは思えない。現に身辺の投稿者も、採用されたはいいが、ちょっとひねった題名が何の変哲もないものに変わる「無断改訂」の憂き目に遭っている。本文も表現に手を入れられているが、どうしてその必要があるのかまったく理解に苦しむ。「添削」を願い出たわけではないし、文章そのものを「校閲」される理由もない。
 正確さが使命の「ニュース」欄と、文章であればこその知的遊戯の要素も発揮できる「文化」欄では、当然異なった対応があって然るべきではないか。
 それから、これはもうお笑いの部類であるが付け足りを……。某紙がこの9月に催される「ハレー・ストリング・クァルテット定期公演」を紹介してくれることになり、そのゲラを見たのだが、ヴィオラ奏者・豊嶋泰嗣の「嶋」が「島」になっていたので、固有名詞だから修正するよう頼んだところ「嶋」の字は使えないとの返事。ただし「長嶋茂雄」はベツですが、ということであった。何新聞であるかはご推察に任せる。

up.gif


 【106】 2001年 9月10日号

Teddy●「900円コンサート」に思う
 新聞で「900円コンサートの復活」が大きく報じられていた。このご時世、レッキとしたアーティストのコンサートが900円也で聴けることはオドロキであり、福音である。関係者(出演者も含めて)の非常な努力と理解には心底より敬意を表する。
 しかし――と、別にその企画に水を差すつもりは毛頭ないが、こうも考えるのだ。この「価格破壊」は、その成果をどこに求めているのか? 「価格破壊」を仕掛けた競争相手は一体誰なのか? と。経済的な負担が軽くていい音楽に親しめるとなれば、聴衆にとっては大歓迎であるが、正直な話、それがクラシック愛好者の底辺を拡げることに(さらにはアーティスト活動の経済的安定にも)繋がるものだろうか? とも……。
 もちろん、人にはそれぞれ「きっかけ」というものがあり、全然その気がなくて無理矢理のように連れて行かれたのがヤミツキの始まり、というケースも数知れずあるのは事実である。しかし「現場」から視ると、よくある企業肝煎りの定例「無料招待コンサート」などでは、集まる人のほとんどは「それが楽しみ」なのであって(そして大方の場合内容も決して「啓蒙的」ではない)、「それをきっかけに有料のコンサートへも……」は期待できそうにもない(むしろその逆に、普通にコンサート通いしている層がたまの「お徳用」を楽しんでいることが多い)のが現状でもある。それはそれで、生活文化向上の為には充分意味のあることではあるが、現実はもっと厳しい。
 また、以前関西で恒常的に開かれていた当時は、出演したアーティスト(拠点は関西であるが文句ない「全国区」の存在である)からはこんな声も聞かれた。「実はその後、随分やり難くはあったんですよ。この前900円やったンに、なんで今度は3000円もするの? と言われたりして……」。
 アーティストが経済的に自立できる環境造りは、決して容易ではない。コンサート鑑賞に支払うべき「正当な対価」とは何を持って基準とするのか。コンサート業界にもさまざまな工夫、努力があってしかるべきだが、「受益者負担」の原則が正常に機能していない部分が多いこの世界の現実は、やはりキビシイとしか言い様がないのだ。

up.gif


 【107】 2001年 9月17日号

Teddy●お粗末の極致。この「お役人の危機管理意識」
 『狂牛病、国内初感染か』との大見出しが、新聞一面のトップに躍ったのは先週はじめである。記事に拠れば『千葉で飼育されていた乳牛1頭が、搬入された食肉処理場で症状を示したため検査した結果、9月10日に陽性反応が出た』とある。さらに『乳用牛は乳が出なくなると食用に回されるが、問題の牛は病気が疑われ、処理場に運ばれた。牛はすべて廃棄され、市場に出なかった。云々』。
 この時点で『「水際作戦」効かず、ショック隠せぬ農水省』となるのだが、狂牛病発生地の「欧州委員会」がすでに日本での狂牛病の発生の可能性について指摘する報告書をとりまとめていたのに、肝心の日本の農水省が「日本の安全性は高い」と難色を示し、ボツになった経緯があるかららしい。それが今年6月のこと。
 ところが、この日本の誇る「水際作戦」なるものが、実ははっきり見えてこない。判ったのは、1996年に「屠蓄場法施行規則を改正し狂牛病を検査対象に加えた」こと、昨年12月「欧州からの牛肉・加工品の全面禁輸を決定した」ことぐらいである。病気の感染から発病までの潜伏期間を考えたら、安全性に対する何の証明にもならないことは歴然としている。
 そしてさらに問題なのは、「牛はすべて廃棄され、市場に出なかった」がマッカなウソであったことが判明したのだ。10日(月)の記者会見では「この牛は焼却された」と発表したが、実際は屠殺処分後茨城の業者の加工場へ運ばれ、他の死牛と混じて総量150トン程度の肉骨粉となっていたのだ。農水省副大臣の14日(金)緊急記者会見での発言を聞くと、何が緊急なものかと笑い捨てたくなる。『「焼却」は勘違い』『畜産部長のテレビの見過ぎによる早とちり』、問題の骨肉粉の現状については『……のはず』『……と思う』とやられてはサジを投げるしかない。何の事実も把握せず、対策も立てず持たず、ただひたすら他人事のように「報告」だけする神経は、どうやって培われたものだろう。また、牛が屠殺された日から狂牛病の疑いが判明した9月10日までの間に「待った」が掛けられなかったのかという素朴な疑問に対しても『それは厚生労働省の管轄』『連携が悪かったということ』など、他人事のように平然としているのには愛想が尽きる。
 またこの問題に関連する千葉県畜産課の「弁明」もアタマに来る。当の病牛の処分についての農水省への報告は「すべて廃棄した」であったが、この「廃棄」は「行政用語」で、『(お役所としては)間違いではないが誤解を招いたかも知れない』というのだ。「食肉としては廃棄」されたのだろうが、その後に他の用途に転用されないようにする処置の方が重要である。彼等の本来の任務は、単なる第三者的立場での報告をすることではなくて、その事実から必然的に発生するであろう問題についての対策を講ずることの筈だ。当面の報告にさえお役所的手落ちがなければいいと言う、これも危機管理意識皆無の典型であろう。
 今回の農水省といい、薬害問題当時の厚生省といい、税金濫費し放題の外務省といい、日本の「お役所」には国や国民を守るという第一義に対する意識、危機管理能力が完全に欠落してしまって、大勢でムダ飯を食いながら「事後処理」だけをノソノソやっているとしか思えない。
 そして、アメリカに対する信じられないような非人道的手段によるテロ発生!
 もしいま、日本もそのターゲットになったとしたら、国民を守るべき立場のお役所は、一体どう対処するのだろう。考えただけでも寒気がする。

up.gif


 【108】 2001年 9月24日号

peace ●いま我々に出来ること
 触れなければいけないと思いつつ、筆が進まないのが、あのおぞましき「テロ事件」である。
 あの無辜の人々を「武器」に使い、更に膨大な数の人たちを殺戮した「テロ」のことを考えると、思考意欲を失うほどの脱力感にさえ襲われる。
 さらにまたそれが、報復に次ぐ報復という破滅的な悪循環すら招きかねない情勢に対して、我々は何を為すべきで、また何を為し得ようか?

 そして無力感と戦いながら、やっとのことに「ルンデとして出来ること」はと考え至ったのが、アーティスト達に次のようなメッセージを送ることだった。

“ピース!”“Peace!”と鳴く鳥を、世界中の空に放ちたい!
同じ思いを持ってくださったら、あなたのコンサートのおしまいに、
出来れば「鳥の歌」を演奏してください。
あなたも一羽のあの鳥を歌わせて、放ってください。
私たちは、全地球上で、音楽を聴き続けられる平和を保ちたいのです。
“ピース!”“Peace!”と鳴く鳥を、世界中の空に放ちましょう!!

 この趣旨にご賛同くださる読者は『ルンデからのメッセージ』のページをご覧ください!

up.gif