Weekly Spot Back Number
July 2002


135 「ワールド・カップ」に想う    7月 1日版
136 「ブルータス、お前もか」(2)  7月 8日版
137 恐るべきワン・パターン  7月15日版
138 掘り起こされる記憶  7月22日版
139 「日本文化」の行方  7月29日版



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【135】 2002年 7月 1日号

鳥の歌●「ワールド・カップ」に想う
 (4月半ばから体調が思わしくなく、世間ではめまぐるしく様々な出来事が駆けめぐっているのに、筆を執る気力がどうしても湧かぬままに2ヶ月以上も空欄にしてしまった。ダラシない限りである。世間は嫌なニュースの方が圧倒的に多かったとは言え、いくつか救われるものもあった。チャイコフスキー国際コンクールで日本女性がピアノ、ヴァイオリン両部門で最高位を得たのもその一つ。そして、もう一つ、サッカーの「ワールド・カップ」も、日本の「平和」を象徴するものだったようだ。)

 ところで、サッカー・ファンが何故「フーリガン」にまでエスカレートしてしまうのか。考えるに、ゲーム展開そのものがあまりにもストレスを助長する仕組みになっているのではないか? と、ラグビーの方が好きな者はつい思ってしまうのだ。足で蹴っても、手で拾って投げても、抱えて走ってもOK。苦労して持ち込んだ得点は、自由な立場から蹴飛ばしたものよりも遥かに多く評価される。展開によっては一発逆転のスリルも……などは、サッカーの、キーパー以外は手が出せない、芸術的なシュートも、ペナルティー・キックも(おまけにオウンゴールと言うのさえ!)同じただ1点に評価、一発逆転は絶対にあり得ない、とは違いすぎる。ジリジリしながら、忍従を強いられ続ける「おしん」劇も観る心境とでも言うか……。されば、我が意を得たときの歓喜も、然あらぬときの悲憤慷慨も、ともに並みはずれて爆発してしまうのだろう。
 まあそれでも、人様が何をどう楽しもうと大きなお世話だが、NHKのはしゃぎ様の異常さには恐れ入った。まるで日本中が俄にサッカーファンになってしまったかのような「報道」ぶりである。定時ニュースの冒頭30分も費やすのは尋常ではない。試合のない日も繰り返し「予想」をやっている(この「解説好き」加減)――スポーツ番組で、ではなく、定時のニュースに、だ。
 そう言えば、サッカー協会は「トルシエ後」の全日本監督には「知名度の高い外国人」を意図しているそうだが、この発想にも、何処か違っている気がして感心しかねる。サッカーファンでもないヤツが、ごちゃごちゃ言う必要もないのだろうが……。

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 【136】 2002年7月 8日号

Teddy●「ブルータス、お前もか」(2)
 前回(1)を書いた時点から今に至るも、「インチキ表示」事件(事件というのも恥ずかしい)が跡を絶たないのには、まことに恐れ入るばかり。狂牛病騒ぎを幸いに不良在庫を政府に税金で買い取らせるなど、悪質政治家・官僚の上を行く破廉恥行為だ。そして結局、引き金となった雪印だけが貧乏くじを引いてしまったような雰囲気になるから、それも困ったものだ。人の懐から出た税金を食い物にするのではなくて、直接その懐で勘定を合わせようという外食産業も氷山の一角を見せ始めた。まあ、「賞味期限」というのは、確かにその日付を過ぎたら「腐る」目安ではないから、食べても普通は「人畜無害」ではあろう。しかし、何のための「賞味期限」か? いやしくも人に「モノを喰わせる」商売が、まずかろうが何だろうが喰わせりゃいいと言うものではあるまい。できるだけ新鮮な食材で、お客においしいものを食べさせよう。そしてその喜ぶ顔を見てひそかに「してやったり」とほくそ笑む……のが商売気質の第一歩だと思う。本来それが楽しくてやるのではないのか。
 そしてそれは、コンサート業界でも然り、である。

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 【137】 2002年 7月15日号

Teddy●恐るべきワン・パターン
 現職の副大臣が大学入試に「口利き」をした、と云う話題がニュース欄を賑わせた。おまけにこの副大臣氏は問題を歯牙にもかけず「いくらでもあること」と切って捨てたから、ことがいっそう大きくなった。野党側は得たりやおうと「審議拒否」を打ち出す。政府与党は「政局混乱を避けるため」副大臣を辞職させる。そして当のご本人は多分「なんでこんなことで俺は辞めなきゃなんねんだヨォ」とボヤいているだろう。そして発端の問題は、何の結論をも得ることなく放棄されて行く……飽きることなく繰り返されるこのワン・パターン。
 不祥事を起こしたり疑惑をもたれたりした自民党の国会議員たちは、異口同音に「党にご迷惑をかけた」から「離党」するという、ことの本質とは全く無縁な「解決策」を採り、承認される。野党の方は、何かあればすぐ好機到来とばかりに「審議拒否」を持ち出して駆け引きの道具にする。さまざまな「根回し」のために議会は徒に空転し、やがておざなりの「結論」が出て、なんとなく再起動する。そこには、解明・反省・自戒・改革の動きのカケラも見当たらない。
 ひところ「反省なら猿でもします」と云うのが流行ったが、さて、こんな事態はなんと剽したらいいのだろうか。

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 【138】 2002年7月22日号

鳥の歌●掘り起こされる記憶
 名古屋納屋橋にある「名宝会館」の閉館取り壊しが決まったようです。オープン以来67年の老朽建物とあれば仕方の無いことかも知れません。しかし、このニュースを聞いて、このところ(それこそ何十年も)全く関心を払わなかった「名宝」について、懐かしい記憶が鮮烈に蘇ってきました。
 終戦の翌年、疎開先から戻った翌朝に近くのお城の土手に登って見た中心街……一面瓦礫の焼け野原の先にポツンと残っていたのが名宝会館のビル――それは今も忘れ得ぬ、心にしっかり刻まれている風景でした。
 報道はもちろんもっぱら映画館としての歴史に集中していますが、かつてここ(名古屋寶塚劇場)は、クラシック音楽の拠点でもありました。そんな記憶をとどめるプログラムが手元にあります(写真)
表紙 コンサートは1947年9月8〜10日で、三日間興行というのも珍しい。出演者は『ヴアイオリン獨奏:諏訪根自子 獨唱:藤原義江 ピアノ伴奏:マンフレット・グルリット』(字体は原文のママ。以下同様)――おお懐かしい名前だ! そして下段に『厚生事業資金醵集 主催:朝日新聞厚生事業團』と。チャリティ・コンサートのハシリか?
 『曲目』は諏訪氏が『ヴイターリ:シャコンヌ、メンデルスゾーン:ヴアイオリン協奏曲、ウイニアウスキー:華麗なるポロネーズ』ほか。藤原氏は『シューベルト:汝は憩ひなれ、民謡集より:ケンタッキーホーム、馬追手綱』等々。
出演者 そして『お詫び』に曰く『皆様の御期待を戴きました「藤原歌劇團」名寶第二回公演「椿姫」は止むを得ざる理由により中止……次回公演は慎重を期し十一月中旬に「タンホイザー」を以て皆様の觀賞に供する豫定……今回は右の事情の為突如、諏訪根自子、藤原義江、マンフレット・グルリット出演による「音楽會」と代えました悪しからず御諒承を願ひます』。
 ペラペラの粗悪紙(B5版見開き四頁。右開き!)に、それでも三色印刷の表紙、裏面は「音響科学の粋を集めて完成した」ナショナルの電蓄(三バンド・オールウェーブ・ラジオ、マグネチック・ピックアップ、UZ−42眞空管使用、消費電力約90ノット……オオこれまたオナツカシヤ)新發賣の全面広告……すっかり変色してボロボロになってしまったそれは、今や貴重な歴史の証人でもありましょう。
 それに続いて思い出されたのは「八重垣劇場」(今のルンデの直近にあったが、もはや界隈も含め、全く変貌してしまった)での映画“ラプソディ・イン・ブルー”との衝撃的な出会い……。  「過ぎ去りし日々の美しき記憶」でしょうか。

 ところで、上述の「プログラム」に古い音楽雑誌からむしり取られた頁が二枚挟まれていました。何に何時掲載されていたかは全く不明ですが、そこには、颯田琴次氏が「三人の提琴家」として諏訪根自子、巖本眞理、辻久子を挙げ、彼女らが天才少女としてもてはやされていることに危惧の念を抱いて警告を発している珍しい一文が見られました。書かれている内容については次の機会に紹介しましょう。

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 【139】 2002年7月29日号

Teddy●「日本文化」の行方
 とても我々風情が大上段に振りかざす性質のものではないと百も承知だが、一庶民としてやっぱり気になることを(飽きもせずに)繰り返すこととする。
 過日、新聞スポーツ欄に大相撲の「朝青竜大関昇進」を大きく扱った記事があった。その特大見出しが『看板大関、緊張の初舞台』云々とあったが、これは如何なものか。小生の記憶によれば『看板大関』という呼称は決して褒め言葉では無い筈である。もともとは勧進元が、人並みはずれて身体の大きな人物に力士の格好をさせて相撲景気を煽ったもので、番付面には大関(当初の最高位。「横綱」は大関の中でもことさら秀でたもの尊称)として載せて、しかし実際には土俵に上がることがない者のことを意味していた。よく言われる「煙草屋の看板娘」にしても、娘が美人であることと煙草の品質には何ら関係ないのであって、ただ商売上は客を引きつける上で大いに価値はあるに違いない。今様にいえば「人寄せパンダ」か。当然ながら、多分に揶揄の響きを含む。

 因みに「看板」という言葉を広辞苑で調べてみたら
かんばん【看板】
◎商家で、屋号・職業・売品などを人目につくように記してかかげたもの。
◎劇場など で、俳優名を記し、または演芸の題目・場面などを画に描いてかかげたもの。
◎(中略)
(比楡的に)表向き標榜していること。見せかけ。
【看板娘】看板代りの娘の意で、店先に客を引きつけるような美しい娘。
――云々
 ともあれ気になって仕方がないから、新聞の担当部署に電話をしたが、電話口に出た若い(声から多分)人は、『「協会の看板力士」なんですから』と宣うたが、それは宣伝手段として何を「売り」にするかは問わない「人気力士」という意味では「看板力士」と称するのは自由である。が、「少なくとも『実力者』に対して『看板大関』いうのは失礼になるのだから、念のために調べてほしい」と頼んだが、調べる気も結果を報告する気も無いと見えて「はあ」というだけで電話を切られてしまった。
 大体(前にも書いたが)新聞さんは妙に生真面目で、「ヴァイオリン」と書いた原稿は必ず「バイオリン」と直される。「ベートーヴェン」は「ベートーベン」になる。これらの「ヴ」の使用は世間一般ではいまや通例である。まぁ、それが「文部省が定めた規則」だとしても、じゃあ何故「ファンタジー」が「ハンタジー」に、「フィルム」が「ヒルム」に、「フィンランド」が「ヒンランド」にならないのか(そうして何故か「コーヒー」だけ「コーフィー」としない)納得しておられるのだろうか。世間の常識に敢えて背を向ける(新聞社以外の一般人が書いた内容にまで、それが明らかに非常識な誤字ならいざしらず、容喙する)理由について合理的な説明がほしいものだ。そして、また前記のような文章に使う熟語の用例もきちんと調べてほしい。
 『情けは人の為ならず』の例を待つまでもなく、昨今のように言葉の持つ意味がひたすら表面的になってゆくと、それで表現される文化自体の内容も浅薄となり、ひいてはその基盤も危うくなろうというものである。言葉を使って大衆に接するメディアでは、その「用語法」一つ一つが社会に与えて行く影響を真剣に考えてほしいものだ。

 ついでに最近のマスコミの「?」語。
(1)『炎天下のモト、熱戦を繰り広げました』などとやって平気なテレビ・ニュース(そう言えば「ハニーハネムーン」(Honey Honeymoon?) なる珍奇なコマーシャルがあったっけ)。
(2)市営住宅エレヴェーター墜落事件の某紙報道で「パッキン」が盛んに出てくる。聞き書きだからそう聞こえるだろうが、機械部品なら「パッキング」でしょう。それくらいは一般的な知識として持っていてくれてもいいのではないか。
 もう一つついでに、最近直接聞いた話。日本舞踊の名流の一つの家元に、テレビ局から出演以来があった。電話をかけてきたプロデューサー氏の質問が、ことごとくピントはずれで、何の勉強も調査もなされておらず、極めて初歩的な質問から始まって、結局は自分の現在の狭小な知識で理解できる範囲内と視聴者はそれ以下だと断定した応対に終始したそうである。例えば過去・現在、その名流舞踊の門をたたいた高名な歌舞伎俳優、映画・演劇人を列挙しても(山田五十鈴クラスでさえ)「知られていませんネェ」。つまり自分の知らないことは全視聴者が知らないという姿勢である。業を煮やした家元氏「いったい著名人ってどんなひとだね?」と聞くと「たとえばイズミモトヤみたいな……」。家元氏は嘆くのである「モトヤが芸の上で話題になっているのならともかくも……」。こうして、偏った「情報」を叩き込まれる一般大衆は、知らず知らずのうちに洗脳されてゆくのである。アナ、オソロシヤ。

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