●「ワールド・カップ」に想う
(4月半ばから体調が思わしくなく、世間ではめまぐるしく様々な出来事が駆けめぐっているのに、筆を執る気力がどうしても湧かぬままに2ヶ月以上も空欄にしてしまった。ダラシない限りである。世間は嫌なニュースの方が圧倒的に多かったとは言え、いくつか救われるものもあった。チャイコフスキー国際コンクールで日本女性がピアノ、ヴァイオリン両部門で最高位を得たのもその一つ。そして、もう一つ、サッカーの「ワールド・カップ」も、日本の「平和」を象徴するものだったようだ。)
ところで、サッカー・ファンが何故「フーリガン」にまでエスカレートしてしまうのか。考えるに、ゲーム展開そのものがあまりにもストレスを助長する仕組みになっているのではないか? と、ラグビーの方が好きな者はつい思ってしまうのだ。足で蹴っても、手で拾って投げても、抱えて走ってもOK。苦労して持ち込んだ得点は、自由な立場から蹴飛ばしたものよりも遥かに多く評価される。展開によっては一発逆転のスリルも……などは、サッカーの、キーパー以外は手が出せない、芸術的なシュートも、ペナルティー・キックも(おまけにオウンゴールと言うのさえ!)同じただ1点に評価、一発逆転は絶対にあり得ない、とは違いすぎる。ジリジリしながら、忍従を強いられ続ける「おしん」劇も観る心境とでも言うか……。されば、我が意を得たときの歓喜も、然あらぬときの悲憤慷慨も、ともに並みはずれて爆発してしまうのだろう。
まあそれでも、人様が何をどう楽しもうと大きなお世話だが、NHKのはしゃぎ様の異常さには恐れ入った。まるで日本中が俄にサッカーファンになってしまったかのような「報道」ぶりである。定時ニュースの冒頭30分も費やすのは尋常ではない。試合のない日も繰り返し「予想」をやっている(この「解説好き」加減)――スポーツ番組で、ではなく、定時のニュースに、だ。
そう言えば、サッカー協会は「トルシエ後」の全日本監督には「知名度の高い外国人」を意図しているそうだが、この発想にも、何処か違っている気がして感心しかねる。サッカーファンでもないヤツが、ごちゃごちゃ言う必要もないのだろうが……。
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