Weekly Spot Back Number
March 2002


130 ても煩わしき肩書かな   3月 4日版
131 どうして「作り物がすべて」なのか(万博に)  3月11日版
132 「離党」したからどうだと言うのだ?  3月18日版
133 「ブルータス、お前もか」(1)  3月25日版



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【130】 2002年 3月 4日号

Teddy●ても煩わしき肩書かな
 自民党の国会議員にまつわる不祥事が次々に明るみに出ているが、それを報ずるTVニュースで頻発される肩書の煩わしさには、ほとほと閉口する。
 例の鈴木宗男センセイに必ず付けられる「ゼンシュウギインギインウンエイイインチョウ」……何故? ことは、彼がその「シュウギインギインウンエイイインチョウ」時代に起こったか、若しくはその職権を利用して引き起こしたわけでもあるまい。なれば、何も舌をかみそうな肩書きを頻繁に繰り返す必然性はなく、また(朝鮮人民民主主義共和国を「北朝鮮」とするような)適当な略語もないとなれば、さらにどうでも偉そうな肩書きが付けたければ最初に「スズキムネオ・ゼンシュウギインギインウンエイイインチョウ」とやって、あとは、鈴木宗男議員、あるいは鈴木宗男でいいじゃないか。
 また加藤紘一「モトカンジチョウ」も、その集金マシンで問題人物である佐藤「モトダイヒョウ」も同じ。繰り返される肩書きも、いつ頃の何の幹事長や何の代表なのかさっぱり判らず、ただただ耳障りなだけである。前にも述べたが(2001年5月)、肩書きにこだわるのも一種の「差別」だと思うが、どうだろう。

 もっと書きたいことがほかにあったのだが、あまりにも馬鹿馬鹿しい「事件」が頻発するので、物申す気力も失せた、というのが現在の正直な心境である。

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 【131】 2002年3月11日号

Teddy●どうして「作り物がすべて」なのか
 愛知万博(別の呼称が出来たそうだが、敢えてこう呼ぶ)会場に「愛知青少年公園」が組み込まれた結果、園内の県児童総合センターが閉鎖されることになった。これについて、同施設の設計者である山下博氏が朝日新聞に抗議の文を寄せておられたが、全くお説の通りで、その主張を全面的に支持する。
 筆者も現場を訪れたことがあるが、一見何の変哲もない空間に、如何に多くの創造性の種や芽が満ちていることか。子供達の生き生きした動きを目の当たりにして、大きな感銘を受けたことであった。
 ここに氏の説を引用させていただく。
 『開催地を巡って迷走した「国家的プロジェクト」と称する愛知万博が05年、名古屋市近郊にある愛知青少年公園を主会場に開かれる。その公園内に県児童総合センターがある。大がかりな仕掛けや遊具はないが、スタッフと共に親子で遊びや造形を楽しむ参加型の「こどもミュージアム」だ。見ることより参加体験させる「ハンズオン」が重要視される。私は設計者として、海外の児童専門家を多数案内したが、この施設と活動は世界でもトップクラスだと驚嘆された。年間50万人もの来場者があり、海外児童専門誌に紹介されたこともある。
 ところが最近突然、万博造成工事のため万博が終了するまで4年間閉鎖すると発表された。基本計画でこの一角が「遊びと文化のゾーン」とされたためだ。あまりの無定見さに唖然とした。足元には世界が認め、年間50万人に支持される施設と活動がある。その活動をつぶして、万博で持ち込むイベントが世界に紹介する文化だとは。このゾーンは、ハイテクを使った「創造力遊園地」になるという。きっとブラックユーモアだろう。センターこそが「創造力遊園地」だったのに。このセンターは子供にこびない子供文化をつくりだした。誰もが想像しなかったユニークな「アートと遊び」を実践している。……』
 まったく、なぜこの種の催しになると、現状を破壊してにわか仕立ての「作り物」ばかりを並べたがるのだろう。いみじくも山下氏が喝破されているように、まさに『万博の表看板「自然の叡智」の裏は「経済効果」』以外の何物でもない。
 この「こどもミュージアム」はそれ自体があるがままで「自然の叡智」のテーマに叶った立派な展示物であり、来場者の素朴な共感を呼ぶに違いない。万博協会側の唱える「ハイテクを使った想像力遊園地」なるものは、人間本来の自由な想像力を、様々な制約にがんじがらめになった、極めてちっぽけな枠に中に押し込めてしまうものだということに、何故当事者たちは気が付かないのだろう。
 意識的に設定された非日常の世界に、素晴らしい日常がさりげなく紛れ込んでいることに気付けば……非日常が消え去った後にも、その日常が一層の輝きを増して存在感を意識させるに違いない。
 そして万博そのものについて、山下氏の憤激に強く共感しつつ、わたしは常々主張していることをあらためて述べたい、『一過性の「イヴェント」は決して「文化」ではない』と。

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 【132】 2002年 3月18日号

Teddy●「離党」したからどうだと言うのだ?
 自民党の「大物」国会議員がらみの不祥事でニュースが賑やかだが、今回もこれらは、型の如く「本人の離党申し出」でチョンとなるようである。その理由も当然「党に迷惑を掛けたから」である。
 だが一体「離党」したからどうだと言うのだ?
 そんな形式的なことに何の意味があるのだ?
 にもかかわらず周囲は「まことにご立派なご決断」などと持ち上げている。「ジョーダンジャネエヨ、オメエラギインノタチバヲナンダトオモッテンダ。ゼーキンヲスキカッテニツカイチラシヤガッテ、ゼンタイダレノカネダトオモッテルンダ、ナニサマダトイウンダヨォ」とムネオ流に机を叩いて食ってかかりたくもなる。
 大半が地方や業界の利益代表でまた党の頭数でしかない彼等は、国会議員の第一の任務を顧みない、国家・国民を考えない。国家・国民に対する背信行為よりも、かかる疑惑を招いた結果党が次回の選挙に不利になることの方を重大視する。党もまた、「国会議員の身分は重い」などと言って、当の本人がその重みに相応しいかには言及せず、身の処し方にアドヴァイスもしないで、体よく選んだ国民の方に責任を転嫁するがごとき態度をとる。そして、せいぜい当面ほとぼりが冷めるまでワラジを履いて来いと暗に示唆するだけで、決してサカズキは返さないのだ。あとは非常に便利な屁理屈「ミソギ」と称する手段で「青天白日の身」になる機会をうかがう。その「ミソギ」も、「地元の事で役所に口を聞いてくれなければ、国会議員の意味がない」と公言するような「支持者」たちが音頭をとってやるのだから全くの無意味なセレモニーである。
 対して、知性も理性も備えた哀れな選挙民たちは「そんな議員を選出した我々の側にも非がある」と、懸命な自省を繰り返すのだが……。

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 【133】 2002年3月25日号

Teddy●「ブルータス、お前もか」
――などと気取ってもいられまいが、「氷山の一角」とはまことによく言ったものだと、つくづく感心してしまう。
 食品偽表示問題――「雪印」が発端となって袋叩きに遭ったが、つまりは業界のほとんどすべての分野で日常的に行われていると言うことである。これは「制度」の不備というより、運用上の問題であって 、一つは業界のモラル欠如、一つは監督官庁の硬直した姿勢と事なかれ主義、そしてもう一つは(案外これが最大のポイント?)消費者の「ブランド信奉」にある。この最後の点では音楽界にも似たような傾向があり、「カタカナ崇拝」「ウィーン・ベルリン詣で」等々もその一端であろう。
 まあ言ってみれば、牛肉を口に入れて、その産地を当てるような舌の持ち主にはお目にかかったことがない、というあたりを考えてみれば、松阪だろうと飛騨だろうとオーストラリアだろうと、自分の味覚に適ったものを「おいしい」と定義して満足していればいいのだ。その「味の違い」のレパートリーを増やそうと思うのはそれぞれの探求心や好奇心、あるいは向上心の問題である。だから「無印良品」の存在の可能性に関心を持たず、ひたすらラベルに欺かれる消費者は残念ながら自らの責任を認めざるを得まいが、許せないのはそれに付け込んで不当に利益を上げようと言うするヤカラ、特に深刻な事態に便乗して「税金」を詐取しようとする心根の卑しさである。
 唐突に思い出すのがかつての「ガダニーニ事件」だ。もしあのヴァイオリンが、生まれはともかく楽器として逸品であれば評価されるべきであり、それを「ガダニーニ」という肩書きの故に評価し、そうでなければ価値を認めないという風潮は頷けないものであった。
 ともあれ、この食品問題では、消費者が己の味覚を信頼することが一つの自衛手段であることは確かである。そしてこのことは、みせかけの商品価値を高めるため行われている様々な作為が、実は消費者側が知らず知らずに引き出している反自然行為であることにも思い至らねばなるまい。 (この項、続く)

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