Essays by “Drinking Bear”
Back Number, 2003

【前口上と云う名の苦しい言い訳】
 それでも三年ほど続いていた「Weekly Spot」が、昨年夏あたりから怪しくなり9月末で遂にダウンしてしまいました。寄る年波の所為か、このところ体調不良が断続的に襲い、勢い気力も今ひとつ充実せず、何となく「投稿拒否(?)」的状態で穴をあけることが続いて、全く以て「Weekly」の看板が泣く始末。
 周囲からの「情けねえナ、しっかりやれよ」とのお叱りもあって、じゃあ新年を契機に何とか再開しよう。でも Weekly というのはストレスの原因になるから、これからは気の向くまま、時間があったら筆を取ると云うことで、マッピラ御免を蒙ります。
 どうぞ悪しからず、お付き合いよろしくお願いいたします。
 なお、これまでの Weekly のバックナンバーにもアクセス出来ますので、相変わらずのご愛顧の程を。
2003年元旦 オヤジ 敬白

その1 孫悟空じゃあるまいし    1月 1日版
その2 クイズ・ニッポン 〜 演算型から電卓型への潮流  2月 6日版
その3 やりきれぬ「はしゃぎ好き」の「はしゃぎ過ぎ」  5月17日版
その4 バカも休み休み言え!  6月18日版
その5 「ホウ」「トカ」「ウソッ!」  6月22日版
その6 ことば……(1) 11月13日版
その7 ことば……(2) 11月28日版



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【1】 2003年 1月 1日号

Teddy●孫悟空じゃあるまいし……
 「クローン人間誕生」のことである。
 科学が進歩して、ヒトは(「自然」に対して)いろいろ作為的なことが可能になった。しかしながら「出来ること」と「する必要のないこと」「してはいけないこと」は、何時の時代でも厳然と区別されねばならぬ。
 たとえば「する必要のないこと」など、今の日本にはゴマンと転がっている。早い話が「カメラ付き携帯電話」や、実現が近いとされる「自動車の自動操縦装置」「家電製品の外出先からの遠隔操作」などそのいい例である。そう出来たら便利だ、面白いと云っているうちはいいが、機能や影響を熟知した発明・考案者自身が使うだけならともかく、一般に広く製品化して普及するとなると「副作用」の方が心配である。前者は肖像権やプライヴァシーなど簡単に吹っ飛んでしまうしだろうし、後者は、まず危険や障害の発生を「未然に予知」してヒトに通報してくれるノウハウが確立されているならともかく、である。
 で、クローン人間に戻るが、それを誕生させることが人類にとって絶対的に必要とされる事柄なのか、その影響や予想される事態に対してどれくらいの認識がなされているというのだろう。まあ「西遊記」の世界での孫悟空は、敵と戦うとき自らの毛を吹いて瞬時に無数の分身の作り出す能力を備えていたようである。しかしそれはあくまで分身であり、分身そのものは意志を持たない。クローン人間というのは、一体分身なのか別個の存在なのか。まかり間違ってジキル博士とハイド氏が独立した存在になりうる可能性はどうなのか、など、生物学に全く無知な身には、あまりにも難しい問題にあふれているようである。

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 【2】 2003年 2月 6日号

Teddy ●クイズ・ニッポン 〜 演算型から電卓型への潮流
 いささか古い話で恐縮だが、昨年末のこと。決算のための書類の整理(これもついでだから言うが、日本はお役所流に云うところの「年度」が煩わしい。確定申告は「歴年」単位だが、その他はおおむね「教育年度」だ。そして「西暦」と「年号」……。だからすっきりするためにウチの経済年度は1月1日から始まり、12月31日を決算日としている)などしながら、見るともなく点いていたテレビにふと目をやると、折しも型のごときタレント出演の、クイズの場面のようであった。
 さて、司会役のこれもタレントが「これは何の略語でしょう?」と掲げたボードには『NHK』と書かれてある。「エェッ! 何?」「なんなの、これッ?!」とかしましい解答者席はいまをときめく『娘。』たち。ひとしきり大騒ぎの末、出された解答はどれも、3文字を食品や芸能人の名前のローマ字綴りのの頭文字にこじつけたもので、なぜ三文字(その三つ)なのか必然性のないものばかり。勿論、正解は「ザンネン、日本放送協会でしたァ」だった。PTAだのNTTだの、略語の例がいくらも身の回りにあるというのに、何故そういうものだと言うことに思い当たらないのか……。ましてや芸能人ともあれば、たしか「テレビ会社」の一つにそういうのがあったっけ、と気が付いてもバチはあたるまい。「N」が日本、「H」が放送(外部からの番組出演者の間では『薄謝』のHか?とも囁かれている)、「K」が協会の、それぞれ頭文字であるとの正解は望むべくもないかもしれないが、である。何もたかがお笑い番組に目クジラ立てることもないのだが、言いたいのは「クイズ番組の面白さというのは、解答者のズ抜けた博識ぶりに周りが驚嘆するところにある筈」なのだ。

 ものの本によると「クイズ=教師による試問。謎。」などとある(英和辞典には「からかう、ひやかす」なども訳語としてあり、これは今のテレビ番組を思うとなかなか微妙なニュアンスだ)。『謎解き』『問答』は、世界中で「遊び」になっているが、とりわけ日本では「言葉遊び」と結びついた知的遊戯として、古くから一般的であった。例えば江戸時代から庶民の娯楽であった落語の世界にも、禅問答を茶化した『こんにゃく問答』のような傑作や、『三十石』の一風景である謎解きも秀逸だ(因みに、これら噺の概要はそれぞれの項をご参照の程)。
 その昔のNHKラジオ・テレビのクイズ番組には、『話の泉』『私は誰でしょう』『20の扉』『私の秘密』などは、優れた解答者たちがわずかな手がかりから謎を解いてゆく楽しみがあり、ぐっと時代が下って『連想ゲーム』も、すこし柔らかくなったがまだ楽しめた。
 これらはすべて解答者自らがヒントを求めて思考し、観客(聴視者)もそのプロセスを楽しんだものだが、最近は総じて若干の与えられたヒントの下の「択一式」で、中にはヒントすらなく全くのアテズッポを要求するものもある。だから解答者はエキスパートである必要はなく、誰でもいいのだ。この「マークシート方式」は、事後、結局正解が何であったかは殆ど記憶に残らないのが特徴だ。『話の泉』などを聴いた後の、ちょっとした物知りになった気分が懐かしい。
 また話が逸れるが、この「択一式」について面白い思い出がある。
 もう四十年以上も昔のことだが、名古屋に大変楽しいエンタテイナーがいた。「モッチャン」と愛称されていた万能ミュージシャンである。当時マツダが「クーペ」という軽乗用車を発売し、刺激されてか彼は一念発起、運転免許を取ることにした。ここで問題は「学科」である。むろんマジメに勉強するタイプではないので、ひそかに一策を案じた。そして第一回の受験は失敗。彼曰く「全部◯にしたんだけど、ダメね」。
 かくて、つぎは「◯╳」交互、それから「◯╳◯」云々とやっているうちに、とうとう本当に合格してしまったのである。これには周囲がびっくりした。嘘のようなホントの話である。なお、首尾よく「クーペ」に搭乗した彼にはまた数々の逸話があるが、それにはふれない。
 本題に戻って……「クイズ番組」はともかく、ほかの番組にもやたら「クイズ形式」を挿入するのが流行りのようである。それらの中で見た極め付きは、NHKの「ロボコン」であった。本来、この、若い工科学生諸君が協力し合って、難題を克服するオリジナル・ロボットを創り上げ成果を競う催しは、企画として稀に見るヒットであり、次の世代を担う彼等の自由で大胆な発想の数々は、見ていても飽きることがない素晴らしいものである。にも拘わらず前回では、なんと某演歌歌手を解答者のリーダーとするクイズが挿入されたのである! この番組のプロデューサー氏の頭の構造は一体どうなっているのだろうか。そうでなくても回を追うごとに無用のショーアップが進むのを我慢しているのに、愚にも付かぬ中身のクイズに貴重な時間を費やすより、学生達の重ねて来た努力を少しでも多く紹介したらどうなのだろう。「公共放送」としてのNHKが、この番組を企画した当初の意義をどう考えているのか、全くもって理解に苦しむ「事件」であった。

 「マークシート方式」の筆頭である大学入試に、昨今はさすがに記述式への回帰が試みられているようではあるが、依然としてプロセスを評価する「演算型」から、結果のみを重視する「電卓型」に、すべての風潮が靡いていることは否めない。生産型でなく消費型の生活現状の典型でもあろうか。
 しかしそうなると、とどのつまり、一体誰が創り出すものを消費することになるのか、将来を考えると空恐ろしくさえなるのだが……。

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 【3】 2003年 5月16日号

●やりきれぬ「はしゃぎ好き」の「はしゃぎ過ぎ」
 最初にお詫びを二つ。
●その1:前回の文中引用した「蒟蒻問答」の概要紹介に間違いがあったことに最近気付きました。あれでは意味が通らない。ご覧になった方、申し訳ありませんでした、もう一度正しいものをお読みください。
●その2:まるまる三ヶ月もサボってしまいました。あまりにもくだらない政・財界の不祥事続きにうんざりして物言う元気もなくなっていたところへ、決定的なパンチ=「イラク戦争」。ただ「鳥の歌」の響かんことを祈るのみ……でした。――では本題に。


Teddy  前々からマスコミ(特にテレビ)の「はしゃぎ好き」を苦々しく思っているのだが、近頃もますますエスカレートするばかりなのは情けない限りである。
 イラク情勢の報道にしてからが、まるでスポーツ中継のようなノリで、連日お祭り騒ぎだったのはいかがなものだろうか。いや「真実の報道の為に生命の危険を冒してまで頑張っているのだ」と言われれば、まあ確かにその通りかも知れないが、それがテレビ番組となるとどうしても「対岸の火事見物」的な雰囲気が横溢して、実況中継から、果ては模型を作ったり「軍事評論家」と称する奇ッ怪なショーバイ人まで動員したりして微に入り細を穿った「解説」をやらかすという、各局競ってのワイドショーごっこであった。
 そして打ち止めが「拾った爆弾」による不幸な死傷事故とは……。

 拉致されていた北朝鮮から帰国できた五人についても然り。まるで芸能人のスキャンダルを追いかけると同じ感覚で、個人的な行動まで事細かに「報道」する。深い心の傷を負っているご本人や周囲の日常生活にまで、それこそ土足で踏み込む必然性と権利が何処にあろう。我々一般人は、掛け値なしに「戻ってくることが出来てよかった」と思い、早く日本人として普通の生活に戻って欲しいと願い、そして特にそれ以上の関心を払うことはないのだ。この際為すべきは、他にも多々あるはずの不当な拉致行為に関する真実の解明や、この五人の北朝鮮での家族をも含めた、人々の安否消息の確認という「次のステップ」に進む事である。
 しかしながらこの問題についても、マスコミはその「過激追っかけ」の罠に自ら墜ちて、個人情報の公開という明らかなプライバシーの侵害(それ以上の波紋も投げかけかねない)まで犯してしまっている。このような節度のなさ、認識の低さが、みすみす権力による報道規制に口実を与えかねないことを、どうして切実に感じ取ろうとしないのだろうか。

 同じようなことは「白い集団」にも当てはまる。
 確かに異様ではある。だが、マスコミから与えられた情報だけから判断しても、集団そのものは別にどうということもない。一種の宗教団体であり、その教義らしきものも信ずる人は信ずるだろうが、一般には(申し訳ないが)どれほどの説得力を持つだろうか。ただ問題は、道路の占有など公共の秩序に反する行為が見られることのみである。余談ながら、服装に関して言えばもっと「見苦しい」風俗が堂々とまかり通っているのだから、白装束が変とは軽々しく非難できまい。
 十数台の自動車が路側に駐車したり、隊列を組んでノロノロ移動したりするのは、ハタ迷惑である。ましてや自分のものでもない立木やガードレールにやたらに白い布を巻き付けることが不法であることは明白である。だが実は、もっと迷惑なのは、金魚の糞のように彼等にくっついているものすごい数の報道陣の車列であり、報道にあおられて集まった野次馬どもだ。そして過熱報道(これこそワイドショーの格好のネタだ)によって異常な危機感が生まれ、もともと何事もなく過ごしていた「本拠地」のある自治体が戸惑っているのは気の毒である。……5月15日も何事もなく過ぎた。

 しかし、これらの「はしゃぎ過ぎ」の極め付きは、何と言ってもNHKの「マツイ・フィーヴァー」であろう。定時ニュースの時間に、松井の出場全試合の、全打席の、全投球を見せるというのは、異様・異常以外の何ものでもない。番組制作担当者は「平和ボケ症候群」の典型的な患者ではないか。または、きっとNHKの皆さんは全員、巨人ファン・松井ファンなのだろう。百歩譲ってそれが「スポーツ・ニュース」の時間であっても、視聴者(有料!)がなぜその身贔屓の「おはしゃぎ」のお相伴をせねばならないのだ。マツイは確かに優れた野球選手ではある。だが、オリンピックの出場選手や、サッカーのワールドカップ代表とは異なり、日本を代表してアメリカに行って戦っている訳ではない。あくまで一個人の職業上の選択として自由意志で赴いただけだ。その彼の当たり前の行為である打者としての全打席・全投球を、もっと追求・報道すべき重要なニュースを差し置いてまで紹介する理由がさっぱり分からない。それなら、二度にわたり、一つの試合を一人で投げ抜き大リーグ・チームを無安打無得点に封じ込めた実績を持つノモの、せめてその試合だけでも全投球をなぜ見せない? 大リーグで紛れもない記録を樹立したその行為こそ報道に値し、ノモの個人的なファンであろうが無かろうが、その快挙を認めるだろう。言っちゃ悪いがマツイの普段の試合の普通の打席や、試合後のインタビューなど、ファン以外には何の意味もない。もっと言えば、積極的にマツイファンを増やすことに精出しているのだ(一体、NHKはあのブーニンを筆頭に、その「擦り込み」がどんな影響を世の中に及ぼしたか、真剣に考えたことがあるだろうか)。小柴教授がノーベル賞を受賞した基であるスーパーカミオカンデの光電管を制作した優秀な企業を、その会社名を伏せて「電子機器メーカー」としか言わなかったのに、プロ野球選手の個人広告ならせっせと出来るという論理は、普通民間人にはとてものことに理解を絶する。

 ともかく「はしゃぎ好き」はなんとか我慢するとしても「はしゃぎ過ぎ」るのは、全く以て見苦しい限りである。

 蛇足であるが、最初の項、爆弾事件について。
 不慮の死を遂げた空港係官の兄なる人が、日本からの謝罪訪問を受け、「その人を家の中に迎え入れた上は、許す。それが我々の文化だ」と言って握手を求めたそうだが、心打たれるものがある。謝罪を要求する上は、許すことが前提でなければならない。許し難ければ、謝罪も受け入れなければいい。どうも一方的に「とりあえず謝罪(この場合は不祥事を起こした側が報道陣に向かって頭を下げること)」すればいいというような風潮、また感情的に謝罪を要求する向きのある我が国の現状を思うと、大変考えさせられる情景であった。

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 【4】 2003年6月18日号

Teddy●バカも休み休み言え!
 またテレビの話だが……。
 昨夜(6月17日22時)、民放の人気ニュース番組の中でのこと。富山湾に燃料不足とやらで停泊中の北朝鮮(朝鮮人民民主主義共和国)の貨物船への「取材」の模様が放映されたが、それを見て唖然とした。一体何を考えているのだ、オヌシたちは!?
 「リポーター」の男性が、まず貨物船に接近しつつ叫ぶ「甲板に一人、人影が見えました」「アッ、二人です」「……三人、四人、五人……見えましたっ!」。無人船が漂着した訳じゃないし潜水艦が浮上したのでもない。フツウの貨物船だもの、本来の業務が中断して停船中の昼日中に、手持ち無沙汰のフツウの乗組員が甲板に居て何の不思議もあるまい。そして、その乗組員に呼びかけるのだ。「食事はしましたか?」「今船を下りたら何がしたいですか?」「日本政府に対して何が言いたいですか?」等々……アァもう何たる愚問の連続(特に「今……何がしたいですか?」はテレビ・インタビューの定番だ。必死の戦いで成果を上げたスポーツ選手に、不慮の災難から奇跡的に還った当人に、何の意味もなくただ興味本位だけで投げかけるアレである)。当然ながら軽く鼻先であしらわれたり、整然としたイデオロギーに則った「模範」解答をもらったり。サマにならない。
 れっきとした日本のマスコミの代表して(という形になるよ、わざわざ接觸しに赴いてその結果を番組の中で報告しているあれは)いながら、自らは何の語りかけも主張もしないで、ただただ先方のスポークスマンを務めるためのご用聞きをするなど、もってのほかだと思うが如何だろう。どう考えても相手には正確・公平な情報は伝わっているはずがないのだから、まず「これこれこういう状況に基づいて今の事態がある」、また「日本(国民)側の反応はこうだ」と説明してから、それに対する相手の意見を聞くのが筋だろうし、もっとつっこんで「燃料も食糧も不足だと言うが、そちらの本国の対応はどうなっているか」くらいはせめて聞いてみたらどうなんだろう。
 とにかく、あれが「取材」だとは聞いてあきれる。「バカも休み休み言え!」と毒づきたくもなろうではないか。

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 【5】 2003年6月22日号

Teddy●「ホウ」「トカ」「ウソッ!」
 過日、文化庁の「国語世論調査」なるものの結果が発表され、マスコミ(特に新聞)を大いに賑わせたが、幾つかの慣用語句の意味が、一般に誤って(多くの場合正反対の意味に)理解されている、という調査結果はなかなか面白く思った。以前から「情けは人の為ならず」などが挙げられていたが、「流れに棹さす」や「役不足」などの誤解は、その用例に接する経験の乏しさから勝手に解釈したもので、とどのつまりは「読書・読文」の不足に帰するのだろう。
 ところで、それに関連して或る全国紙のコラムが、「確信犯」を「悪事と知っての犯罪」の意味と解する誤解は『誤りだろうか。単に定義の問題では』と言っていたが、何を言いたいのやらさっぱり判らない。定義が違えばすなわち意味するところも異なってくる。この語は「愉快犯」という語と対比してみれば明らかである。字面から内容を理解しやすいかどうかは別問題であるが。
 また同じ紙の別の面のコラム子が「謦咳に接する」という句の意味を、『他人のセキがかかるのは不快、故に「不愉快きわまりない」意と永らく誤解していた』と「告白」しているのには驚かされた。「接する」という語感からもそういう解釈は想像できないが……。「爪の垢でも煎じて飲め」という俗な慣用句もあるように、これは比喩である。優れた人の口から漏れ出たものならば咳払いといえども有り難い、またそれほど近くに接しているだけでも有意義だ、との意だろう。ともあれ第一線ジャーナリストにして然り、一般人や推して知るべし、か。
 さて、頭書の調査では、気になる言葉遣いとして「……カラお預かりします」と「……のホウ云々」の濫用が槍玉にあがっていた。それが前者に対して先のコラムでは『……文句のでない「いただきます」では上下の意識が嫌われる? 対人間関係の微妙な変化では。正誤の話では終わるまい』とあるが、これも何のことやらピントはずれで意味不明だ。この場合は「カラ」も「ホウ」も無意味な挿入で、本来全然不要であるところが問題なのだ。「いただきます」はまったく無関係だし、また謙譲語・丁寧語の使用は自身の嗜みであって、必ずしも身分関係の上下を意識してものではあるまい。敬語とは別物である。

 ところで、正直なところ、特に今の若い世代が頻発する「トカ」と「ホウ」は、大変耳障りだ。これらは本来は複数のものから一つを例示あるいは選択する場合に用いられる表現なのだが、それが比較対象なしに単独で出てくるのですこぶる違和感を覚える。「トカ」は新聞のニュース記事などの書き言葉にも堂々と登場し始めているが、これは不必要な付加で、強いて言えば「など」と書き表すものだろう。
 後者の「ホウ」に関しては傑作な経験がある。その無意味に付加された「ホウ」を比較対象のある「方」だと誤解したバカなハナシである。
 或る会合で、会議室に集まった出席者にスケジュールを説明する若い女性、『これからそれぞれお部屋のホウにわかれていただきます。……鍵のホウは皆様で管理のホウよろしくお願いします。』(まあここまではいいか。そして)『お昼は●●さん(会場近くのレストラン名)の方にお願いしてあります。お茶は○○さん(やはり近くの喫茶店名)の方でどうぞ』と聞いたのが間違いのモトであった。昼の休憩、相棒とその●●さんのホウへ出かけた。だが「仲間」の姿はなく何となく様子が違う。狐につままれた想いで結局フツーの客として食事を済ませた。で、あとで聞いてみると、その会合は最近の通例として、昼の弁当を会議室に用意することになったそうだ。相棒共々久しぶりの参加だったので、以前は出かけていた記憶もあってそう思いこんだのだ。まあそれなら『お昼はこの会議室のホウに用意します』と言ってくれればいいので、こちとらは何処製の出前弁当でも否やはない。因みに「お茶」のホウは、○○さんのホウへ出かける仕来りだそうだった。

 そして、最後にこの欄表題最後の「ウソッ!」について。
 新しいニュースを耳にしたとき、自分の予想しなかった事柄を聞いたとき、まず反射的に「ウソッ!」と叫び、そして「ホント?」「マジ?」と続く……。気の置けぬ仲間同士の、軽い揶揄を含んだ会話の中では、リズミカルで快いかも知れないが、ハタで聞く方には「ウソッ!」はかなり耳障りではある。
 その「ウソッ!」からドキッとするほど「悪い感じ」を受けたのが、或るテレビの長寿の秘訣を探る番組でのことだった。
 平和な田園が広がるたんぼ道を、一人の老人が確かな足取りで歩いている。それを若い男性リポーターが追いかけて声をかける。「散歩ですカァー?」「そうです」「いつも散歩するんですカァ?」「年を取って動けなくなるといけないので、毎日1500メートル歩くことにしております」律儀に答える老人。「毎日1.5キロですカァ、スゴイですねェ! あのお幾つですカァ?」「わたし……97歳です」(ここで間髪を入れず)「ウソッ!」(見ていてこちらがヒヤッとした。思わず叫んでしまったリポーターもさすがに気が差してか絶句?ならいいのだが……。純朴な老人の心なしか悲しそうな表情……)。どう考えても、その瞬間相手は心傷ついたに違いない。「信じられない」気持ちを思わず「ウソッ」で表してしまったリポーターに、勿論悪意はなかったであろう。だが時と場合を考えて発言してこそプロなのだ。仲間内では笑って済ませる冗談も、初対面の赤の他人には通用しない。真面目な相手には真摯に対応する、それくらいの常識も語彙の持ち合わせもない連中がテレビの画面を通して教育するのだから、近い将来の日本語の崩壊は目に見えているようなものだ。

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 【6】 2003年11月13日号

Teddy●ことば……(1)
 ついさっき、テレビのニュースが「北海道にクマ」を報じていた。苫小牧市の住宅街にヒグマが出没して大騒ぎになっているらしい。クマ公とて好んで人間に近付く訳でもあるまい。ヤマの食糧事情の所為であろうし、その原因の大方は人間にあるのだろう。現地では広報車両がマイクでひっきりなしに注意を呼びかけ、空には取材(警戒?)のヘリコプターが舞って騒然としている。これにはクマ公も辟易しているんじゃないか。
 「物騒で……」「ハンターを待機させて……」と大人が騒いでいる中で、女の子が「早く帰って欲しい……ヤマへ……」とポツンと呟いていた姿が大変可憐で、何とも印象的だった。優しい願望と愛情を込めた言葉が、限りなく美しい。
 片や「ずいぶん沢山落としてくれたねぇ。陳情は控えた方がいいんじゃないか」とは選挙後の政府のオエラ方の県知事へのセリフ。この我慢しがたい傲慢さにあふれた言葉の、たとえようのない汚さ! ここに書くことさえ憚られる……。選挙と政治、税金と予算――国民と国家に対して何の想いも致さないのか。「江戸の敵を長崎で討つ」ほどのユーモアのセンスなどかけらもないあからさまな恫喝を、する方もする方なら、青くなって恐れ入る方もどうかしている。
 「品質を落として客足が遠のいたのに、流通機構に難癖を付けている大企業」と云った図柄は、関西弁の「アホか」に尽きる。

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 【7】 2003年11月28日号

Teddy●ことば……(2)
 11月のある日の新聞……第一面に「来島海峡大橋、橋げたに溶接不良 業者無断継ぎ足し」、社会面に「不良耐震ボルト、計943本に JR西日本、鉄橋を調査」とある。そして前者は、本州四国連絡橋公団の『仮に溶接面が外れても橋が落下することはない』との、後者はJRの『直ちに危険な橋はない』とするコメントが続く。危険はないから一般の方々はご心配なく、ということなのだろうが、「いいからいいから、気にしてないから、これ位は」と、いい加減な工事をした業者側をかばっているかのように感じられて仕方がない。
 ご丁寧なことに、この新聞の第三面には「耐震補強 335橋不良」という大きな見出しで、「落橋防止装置を留めるボルトの長さが足りない施工不良が見つかった」とする国土交通省の調査結果が載っているのだ(ここでは「手抜き工事の可能性」「大地震時には橋が橋脚から落下するおそれがある」と慎重に表現している)。ついでに、これらをバラバラにではなく、いっそ同一面に揃い踏みさせたら、さぞや壮観だったろうに。
 (そのほんの数日後のコラムに、宮大工一筋の「現代の匠」の弟子に与える心得が載っていた。曰く『誠、真実を尽くすこと』。)
 さらに続いて、新幹線運転士が乗務中に写真メールを女友達に送っていた件で、JR東海社長の言『三重・四重に安全が計られているから大丈夫』。フン、そんなに安全ならイッソ無人運転にすればいい。経費節減効果莫大であろうに。
 だが問題の本質はそんなところには無い筈。
 さらに、さらに、「学校耐震化自前で」という見出しの記事――愛知県下の自治体が、国の補助を受ける工事だと4年かかるが、自前で経費負担して2年で耐震補強工事を行えば、その差2年の内に万一地震が起きても子供を守れる、と予算を計上し工事を開始する、とのこと。対する文部科学省の担当課のコメントが、何と『自治体が国の補助を受けずに耐震補強工事する事例は、聞いたことがない』だと。この白々しさ、「フザケルナ」と言いたいね。「自腹を切ってまで子供を守ろうとする志は誠に感じ入る。だが制度上それには手助け出来なくてゴメン」くらい言ったらどうだ。
 こんなコメントを出すズレた感覚が、社会の上層部と謂われる階層に蔓延しているのだとしたら、アホ臭くてまともな仕事などやっちゃいられない。新聞も、伝書鳩よろしく淡々と「事実の報道」をするばかりでなく、真の問題点が何処にあるのかを堂々と正面から糾弾してほしい。それが真のジャーナリズムというものだろが。
      (ルンデの会会報第267号、『編集後記』を引用)

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