Essays by “Drinking Bear”
Back Number, 2006

その1: 1月 5日版

 “寿限無”銀行の誕生 〜 これは感性の問題か?

その2: 4月 3日版

 4月1日を『ホンネの日』に

その3: 4月10日版

 「こしょう」している感覚

その4: 5月20日版

 「憎みきれない」……?

その5: 5月25日版

 「愛国」と「共謀」

その6: 8月24日版

 惑星とはなんぞや?

その7:10月24日版

  「ビカゴ」?……なら「ヒゲゴ」

その8:11月 6日版

  「人」行えば、「熊」それに倣う

その9:11月16日版

  そりゃ聞こえませぬ……

その10:12月 1日版

  「光」の偏在。そして、「幻想的」とは?



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【6】 2006年 8月24日号

Teddy ●惑星とはなんぞや?
(連日の暑さに逆に気を奮い立たせて、御無沙汰だった当欄に再挑戦を試みることにした)

 最近ちょっとした「惑星騒ぎ」が起きている。今までお馴染みだった9個の太陽系惑星が、一気に12個になるか? と云うのだから、天文ファンならずとも関心が向いてしまう話題である。国際天文学会でも議論を重ねた結果、「そも、惑星とはなんぞや?」の定義から相談し直しと云うから、面白い。
 どうやら結果は「冥王星」が失格して惑星から外され、「太陽系の惑星は8個」に落ちつきそうである。まあ、この結果に一番ほくそ笑んでいるのが、星の彼方のイギリスの作曲家グスタフ・ホルストかもしれない。彼の大管弦楽のための組曲「惑星」は、近年日本でも好んで演奏されるようになったが、いつも「作曲者の時代には、まだ冥王星は発見されていなかった」という注釈付きであった。もしこの結果が確定すれば、晴れて「惑星」は太陽系賛歌として揺るぎない地位を無条件に確保するだろ。
 もっとも、「冥王星」を発見したのがアメリカ人だということで、アメリカが8個案には大反対しているようだ。なんでも一番・一流でないと承知しないお国柄とは云え、宇宙という壮大な規模にしては随分ミミッチイ話だ。
 しかしよく考えてみれば、足下の地球についても謎だらけで、地震や台風にはお手上げで、環境破壊は進行し、民族紛争や宗教対立などにもろくに対処できない一方で、「天文学的遠距離」の彼方についてやきもきするのも如何なものか。

 そういえば、一方で古き佳きものを遠慮会釈無く破壊しておきながら、今更「日本橋の景観を元通りに」とか「名古屋城の本丸御殿を再建する」だの、大規模土建事業に一般市民からすれば「天文学的数字」のお金を注ぎ込もうとする動きも活発である。

 どっちを見ても「もっと先にしなければならないことが山積みじゃないか」と、言いたくなってしまうことが如何にも多い。

◎25日補足:太陽系惑星は正式に8個と決定したようである。ちょっぴり冥王星の顔もたてる配慮もあるようなのがちょっと可笑しい……。


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【7】 2006年10月24日号

Teddy●「ビカゴ」?……なら「ヒゲゴ」を

 テレビのニュースによると、近年敬語の使い方が乱れていることを嘆いて、文部科学省が改善に乗り出したそうで、ナントカ検討委員会みたいな組織で研究を開始したと報じている。
 それによると、現在【敬語】、【謙譲語】、【丁寧語】の三つに分類されているこの種の言葉遣いを、五つに分類し直す。そして、例えば「お茶」や「お話」などの表現は、「茶」や「話」の丁寧な言い方ではなくて、対象を「美化」する言い回しだから、新たに設ける【ビカゴ】に分類するのだそうだ。「ビ・カ・ゴ」とは多分【美化語】と書くのだろうが、これはまた何とも美しくない語感である。どうでもいいけれど「お茶をください」は「茶を呉れ」の多少丁寧な言い方だろうし、「素晴らしいお話に感激しました」の言い方で、「お話」を美化語と認識しつつ使うとも思われない。大体言葉というものは、長い時間を掛けて生活に定着して行くもので、庶民的見地から言えば、「お茶」「お酒」は言いっ放しよりは柔らかい語感が好まれるとして、「おビール」や「お紅茶」となるとこれは【美化語】というより【クソ丁寧語】(ハシタナイ言い方で失礼)とでも分類したくなるようなものだ。

 ちょっと本題から逸れるが、一体、書いた字面と発音した語感は、凡そかけ離れていることもままあるし、更にはその読み方や発音の抑揚によっては、聞き手に全く違った「原文」を想像させてしまう。
 前者の例として、昨今の町村合併で名古屋市の近郊に誕生した「北名古屋市」などが(当事者には申し訳ないが)いい例である。これを「キタ・ナゴヤ」と分離するように読めば間違いは起こらないが、「キタナゴヤ」と一気に読み、しかも最近の「慣例」に従って尻上がり又は平板な抑揚で発音すると「汚な小屋」と聞こえかねないのだ。音楽で云えばアーティキュレーション(区切り法)が妥当か否かにかかる。
 後者の例は今や枚挙に暇がないが、NHKのニュースのベテラン・アナでも「夫妻」を「負債」と当たり前のように発音しているのを聞くと悲しくなる。歌舞伎の名題役者が、教養番組で「平敦盛」を「平らの厚盛り」……聞くところによると、フランスでは国立劇場の俳優が小学校で「正しい発音の美しい母国語」をきかせるとか。

 話を元へ戻して――この、分類を細かくして、というのが如何にもお役所ラシイ「規則的」発想で、シロートには根拠が薄い思われる「姓名に使える字」や「常用漢字」の選び方でも先刻明らかだが……失礼ながら可笑しくもなる。で、この美しくない語感の【美化語】が生まれるなら、ついでに「ヒゲゴ」という分類も作って欲しいものだ。【卑下語】と書く。オエライセンセイ方が、特にある時期頻発する表現、「国(県・市……)民のミナサマ」、「(立候補を)決断サセテイタダキマシタ」、「(わたくしの心情を)オウッタエサセテイタダキマス」、「(被災地で)誠心誠意ゴシエンモウシアゲルよう努力いたします」等々が所属する。
 もっと言えば、日本で古くから挙げられている表現・態度「慇懃無礼」なども、この際何処かへしっかり分類、登録しておいたらどうだろう。
 要するにこれらは、意識的なのか無意識のうちにそうなっているのか、また表現法と感じ方の両方が整っていなければ成り立たない「対話」なのだ。

 とどの詰まりは、お互いの「感性」に依存する。


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【8】 2006年11月6日号

Teddy●「人」行えば、「熊」それに倣う

 今年は例年になく熊が人里に現れているようだ。特に冬眠を控えたこの時期、山に食料が不足しているらしいからだが、そうなれば熊にしてみればやむ得ざる仕儀かも知れない。
 最近の報道によると、民家の蜂蜜小屋を襲った例があったそうだ。熊にとっては蜂の巣を直撃するより世話は要らないということか。
 それにつけても、近頃、収蔵庫の米や収穫間近の野菜・果実、養殖の魚介類の窃盗が頻発するようになったようだ。「盗み」の罪は何によらず許されないが、この種の他人の膨大な努力と汗の結晶を奪い去ることは、許すべからざる重罪である。

 考えてみれば、政・官・財界の上つ方が違法な不労所得にうつつを抜かしていれば、下々で大企業も含めてのこすっからいサギが横行し、従って個人レベルの同様な犯行も頻発する……となれば、野生動物の世界にも徐々に波及して行くのも宜ナルカナ。

 ここは、あながち熊公ばかりを責められまい。


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【9】 2006年11月16日号

Teddy●そりゃ聞こえませぬ……

 自民党は「伝統と文化を尊重し、我が国と郷土を愛する態度を養う」 ことを眼目とした「教育基本法」改定案を強引に議決した。
 新聞の報道によれば、この法案のとりまとめに携わった審議委員のセンセイは、「国や郷土、伝統をきちんと位置づけた点は評価できる。国の文化や伝統への誇り、独立の心構えを子供たちが身につけていくのは大変重要」であると自画自賛されている。問題とされている「愛国心」の教育について、大学の偉いセンセイは、「自由と民主主義が定着した現在の日本で、愛国心が軍国主義につながることはない」と宣もうた。

 ちょっと待ってください。
 いまオトナが取り仕切っている世界で、現実問題として、例えば行政の世界で、伝統や文化はどのように尊重されているのだろうか。政治家諸氏の動きからは、「郷土を愛する」姿はよく判るとして「我が国」をどのように愛しておられるのかは、今ひとつ詳らかでない。
 おそらく大半の一般市民は、愛国心とは無関係に感覚的に軍国主義を否定しているだろう。ただいかにして其れを貫き通すかの具体的なノウハウや力を持たない。危惧すべきは、むしろ国家権力の中枢がどれだけ軍国主義への流れに立ちはだかる気概と実行力を持っているかだろう。

 同じ日の別の紙面では、大相撲のある部屋の親方が「指導する師匠の心得」を問われて、「弟子はオレの後ろを見てついてくる。だから、自分自身が力士の本分を忘れないこと……」と述べている。至極当たり前の事ながら、なかなか実行できないことでもある。
 翻って、日本で指導的立場にある人々(十把一絡げにするつもりは無いが)が、どれだけ「我が国(国民)を愛し」「国の文化や伝統への誇り、独立の心構え」の範を垂れてくれているだろうか。
 教育の要点はお題目や技術論ではない筈である。

 未来の日本を背負う子供たちに、お手本も示さずに高邁ぶった理論を押しつけ「愛国心を持て」と呼びかけるのですか?
 『そりゃ聞こえませぬ、お歴々……』。


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【10】 2006年12月1日号

Teddy●「光」の偏在。そして、『幻想的』とは?

 特に師走に入り、クリスマスだ新年だと、「電飾」が華やかになる。
 大規模な光のトンネルも各地に出現し、何万個もの電球で照らし出された眩い光の洪水が新聞の紙面を飾る。
 だが、と、ケチな人間は考えてしまうのだ。「環境汚染」や「省エネ」はどうなってるの? どうせ消費するエネルギーなら、それを使って、不便なばかりでなく犯罪を誘発するおそれすらあるあちこちの「暗闇」に、裸電球一個の街路灯を設置したらどうだろう、と。
 いま社会現象の一つとして「富の格差」が大きく浮かび上がっている。それに準えれば、こちらは「光の偏在」とでも言おうか。

 ところで、これらの電飾や観光地にも盛んな「ライトアップ」の光景を表現するのに決まって用いられる言葉が『幻想的』である ……はて「幻想」とは一体何なのだろう。
 目の前の実際に、あり得ない願望や想像を重ね合わせることが「幻想」であり、またそう言う雰囲気を引き起こす状況が「幻想的」なのではないか? そして多くの場合、自然現象の巧みがその対照になる――曰く「オーロラ」、曰く「雲海」、曰く「霧氷」……。或いはまた、かの「マッチ売りの少女」は、凍える手で擦ったそのたった一本のマッチの光の先にさえ、暖かく華やかなクリスマス・イヴの一場面を見たのだ。
 何の想像力も働かす余地のない押しつけられた実像を、どうして「幻想」と呼べようか。これらの幻想の正体は、真昼の太陽の下では、消えて無くならずに醜い形骸を晒していて、多くの場合、対象の本来の姿を見つめるのに邪魔ですらある ―― 見事に凍った滝の滝壺周辺に、いやでも視界に入るように設置されている投光器、満開の桜の間に顔を覗かせる安っぽい提灯やぼんぼりと電気配線、等々。

 そうそう、音楽の世界にも、似たようなこんな例がある。
 ドビュッシーのピアノ作品「Images」。この邦訳題は、以前は「影像」――音で描かれた心象だった。ところが、いつの間にかこれが「映像」となった。「Images」は、もはや人の脳中で常に新陳代謝する思考ではなくて、コンピュータやメディアのメモリに記録された不変のデータに置き換えられてしまったようだ。

 「考える葦」は、絶滅危惧種になりつつあるのか。



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