31 | 「テーマ・パーク」について | 4月 3日版(第2週掲載) |
32 | 背筋の寒くなる話 | 4月10日版(第3週掲載) |
33 | 国歌と国旗 | 4月17日版(第4週掲載) |
34 | 曖昧日本語罷り通る | 4月24日版(第5週掲載) |
2000年4月第2週掲載 |
2000年4月第3週掲載 |
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曖昧日本語罷り通る
![]() それはひとまず措いて、日本語特有の「言語明瞭、意味不明」の典型の一つとして気になるのは、特に最近しばしば用いられる「遺憾」という言葉である。警察を始め各種公的機関の不祥事に絡んで、様々な人が口にし、果ては石原知事までも使った「遺憾であります」。この「遺憾」なる単語の本来の意味とその使われ方が、場合によって本当に適切であるのかどうか。勿論国語学者でもない輩がとやこう言ったとて仕方がないとは思うが、どうにも腑に落ちないのである。 因みに「広辞苑」を繙くと、
ついでに思い出すのだが、特にニュース放送を聞いていて大変耳障りな言葉、「……認識を示しました」と「……見解を示しました」がある。ためしにNHKのニュースの時間に「シメシマシタ」がどれくらい使われるか、気をつけてみていただきたい。これは、ニュースとして、話者が耳にした事実を第三者に伝えるのだから「……と語りました」「……と述べました」と表現すればいいので、ことさら「示しました」と、あたかも「示した者」と「示された者」がいて自分はその埒外にあるような言い回しをする理由はないと思うがどうであろうか。それに、この「示しました」という言葉の語感には、ある種の傲慢さか、或いは、本心を披瀝せず相手の出方を窺ってみる、なにか駆け引きめいたものが強く感じられてしまう。 それに、最も引っかかるのは「……認識を示しました」という内容が、大半の場合そう言った本人の「意見」や「主張」であるのだ。「認識」と言う言葉の意味を再び「広辞苑」に拠ってみると、
ここでも、先の「遺憾」同様、堂々と正面からものを言わず、曖昧模糊とした表現で、本当のところはちっとも理解させないまま、何となく全てを「マアルクオサメテ」行こうとする、或いはそうすることを容認する、やりきれない体質を露呈しているように思えてしまうのだ。 |