66 | 人が人を守る | 12月 4日版(第2週掲載) |
67 | ニコライエワの想い出(2) | 12月11日版(第3週掲載) |
68 | ニコライエワの想い出(3) | 12月18日版(第4週掲載) |
69 | 世紀末に…… | 12月25日版(第5週掲載) |
2000年12月第2週掲載 |
![]() 先週に続いて、愛するタチャーナおばさんについて回想しようと思っていたのだが、なんともバカバカしい「医療ミス」が報道されたので、無粋な事を書かねばならなくなった。 新聞報道に拠れば、医師がコンピュータ画面のクリックする位置を間違えたため誤った注射薬が処方投与され、結果的に患者が死亡したとされるものだ(病院側は、処方のミスと死亡の間には直接的な因果関係はないとしているが、事故そのものがあってはならない)。 この事故では、まず三つの人為的なミスが存在するようだ。逆からたどると、一旦疑問をもちながらも「まあ医師の指示通りにしておけばいいだろう」と注射を実施した看護婦、当然通常の治療に使用される薬品ではないことを熟知していながら医師に確認することなく処方箋通りに投薬した薬剤師、マウス操作の結果が自分の意志通りであったかどうかを確かめなかったと思われる医師、のそれである。 この三つの「確認する機会」のどれかが実施されていれば、この事故は起こらなかった。最近頻々と報ぜられる医療ミスも、すべてこの「確認」が疎かになっていた結果であろう。医療業務こそ、まさに「人が人を守る」現場である。自己の職責に対する自覚さえ働けば、当然何事も起こらない。この場合、薬剤師や看護婦と医師の間の「風通し」が良くないのでは、と一部の報道が伝えていたが、人の生命を預かる現場で「風通し」云々はナンセンスである。自分の行為に課せられた責任という点では、全てが対等でなければ連携作業は成り立たない。 それにしても、そもそものことの起こりは、と、シロートは思うのである。コンピュータの画面上で、薬品名をマウスで選択する際に、問題は発生した、としたら、表示される薬品リストは、通常医薬品と毒薬・劇薬を特に区別せず、すべての薬品が単純に五十音順に並んでいたのだろうか。せめて色分けでも?(シロート的発想では毒薬・劇薬を選択したら警告音を発生するなどの措置はたやすいものと思うが?) そのプログラムでは入力した結果を確認する要求はなされないのだろうか? 単純なクリックミスをそのまま受け入れるのではなくて、事が事だけに念には念を入れて最終決定されるべきではないか? etc. 実際にそのシステムについては何も知らないからとやこうは言えないが、以前このコラム「作る人と使う人」でも触れたように、プログラマーと発注者、さらには利用者の間の意識のズレは大変コワイのである。運用さるべきシステムについて的確な知識と理解のある発注者と、それによって何が起こる可能性があるかを充分予見できる見識を持ったプログラマーが揃って、はじめて信頼するに足るものが出来上がる。それでもなおかつ、最終的に運用する人が、最終責任を負う事は免れ得ない。軽々に機械化、合理化を唱えられるものではない。 それにしても、と、またまたシロートは気に病むのである。政府のお偉方よ、鬼の首でも取ったように「IT」「IT」とおっしゃるが、ホントに大丈夫カヤ? と。 |
2000年12月第3週掲載 |
![]() 中断した「ニコライエワ」の続き。前回もご参照下さい。 ショスタコーヴィッチを弾く 二度目の来演は1984年でした。前回の時『日本では、私がバッハしか弾けないと思われているようですね』と冗談めかしたお話が出ました。そこで次回は是非、彼女の師であり、のちに最も親しい友人となったドミトリ・ショスタコーヴィッチを、弾き、語って欲しいとお願いしておいたのですが、ちゃんと約束通りのプログラム案が提示されてきました。この時、国内での8回の演奏会で、ショスタコーヴィッチを含むこのプログラムを取り上げたのは、結局ルンデだけでした。 《お話》のテーマももちろんショスタコーヴィッチ。彼女は、日本で彼の作品を弾き、話をしたことを、是非ショスタコーヴィッチ未亡人に伝えたいと、自らカセットテレコの操作をしながらの講演でした。 例によって会報(1984年7月号)から……。 お互いの念願が叶っての“ルンデ・プロ”、ショスタコヴィッチの“前奏曲”からの数曲は、バッハから一転して鋭い切れ味の精悍なタッチで、あまり耳馴染みのなかったこの作品の真価を、あらためて知らしめてくれたのでした。 アンコールのステージで、ピアノのフレームに残る一昨年のサインに、今日の日付を書き加える……そして、いとも軽快なベートーヴェンの“エコセーズ”を……おまけに、チョッピリいたずらっぽく『ショパン、エコセーズ!』も……。 演奏会の翌朝は、待望の“お話しと演奏”。前夜、休憩後の演奏に入る前に、特に発言を求めて『明日は、私の敬愛するショスタコヴィッチについて話したい』と予告していた彼女は、『ショスタコヴィッチについて話すとき、私は今でも胸が高鳴り、気持ちが昂揚するのを押えることが出来ません……』と、熱っぽく、彼との出会い、殊にライプツィヒでのあの《バッハ・コンクール》について語り、深い感動をもって弾いた想い出の曲“平均律第2巻第4番”の美しかったこと……。 その人に対する強い尊敬の念と愛情の溢れた語り口から次々に紹介されるエピソードによって、人間ショスタコヴィッチ像が聞く者の心に鮮かに浮き彫りされて行く……全く時間の経過を忘れてしまう、素晴らしい日曜日の朝でした。 ○前回のバッハに感激いたしましたので、今度はとても楽しみにして伺いました。先生のバッハは、今までの私のバッハに対して思っていたものとちがっていました。『平均律』の演奏会では、家を出る時、何となく威儀を正して会場に出かけたものでした。ところが、そんなバッハではなく、暖かい自由な『平均律第1巻』をきかせて頂いておどろきと感激でした。 今夜のショスタコヴィッチの曲は、初めてきかせて頂きましたが、面白う愉しうございました。作曲者と演奏者が一つに感じられ、最高でした。又是非是非他の曲もたくさんきかせて頂き度うございます。【千種区:T. O.】 ○バッハの、母なる大地の如くゆらぐ事なくしかも暖か味のある演奏、偉大というか尊厳を覚えました。ショスタコーヴィッチは、その大地に出来た森、林、大きな岩、遠くから聞こえる海鳴り、そして農民の唄……。そしてアンコールのエコセーズには、人々の歓喜を感じました。 感銘深い演奏会でした。【昭和区:M. K.】 ○うかつながら、ニコライエワさんのショパンやベートーヴェンがきけるとは、思ってもみませんでした。こうなると、モーツァルトも是非ききたいのですが……。【一宮市:Y. K.】 ○第1音を聞いた時、胸にジーンとするものを感じ、目頭があつくなりました。“トッカータとフーガ”の時には、とうとう涙が出てきてしまいました。こんな経験は初めてです。 彼女の体型からも感じられるのかな、包みこんでくるような温かい音で、とても満ちたりた気持ちにさせていただきました。明日からの私のバッハは、昨日より優しい気持ちで弾けそうです。【豊田市:N. M.】 |
2000年12月第4週掲載 |
2000年12月第5週掲載 |
![]() 見渡す世間の世紀末の年の瀬は、暗いニュースが頻発して、どこか虚しい雰囲気に包まれているように思えました。そこでせめて明るさを、と言うのでしょうか、華やかなイルミネーションがあちこちで話題になっているようです。が、それとても貧乏性のシモジモの者としては、あの莫大な電力消費は、求められているはずの「省エネ」「環境保護」運動に悖らないのか、費用は一体誰が負担するのか、などとつい心配になってしまいます。 さて、歴代の内閣が叫び続けてきた「行政改革の断行」が「省庁再編」という形で実行されることにました。でも、看板を変えただけで、結局中身は同じじゃないの? 改革する必要のあるのは、名前や組織の構成ではなくて、機構に携わる人の意識、発想、思考、行動だと思うけど。確かなことは、看板、印鑑、用箋、封筒、名刺、電話帳等々、今までのものを一切廃棄、新調され、引越し等々の費用にも間違いなく莫大なお金が費やされる――そう、どう考えても日本政府は「金のなる木」を持っているに違いない(この文句は、確か随分前にも言ったっけ)。 需要も無いのに無理に作って、一向に有効利用されないでいるものがある――農道空港ではなくて2000円札の話。これが流通するためには、現金を扱う自動機器、出納関係の帳簿、用紙、器具を改造・改定するために市民生活の隅々にまで経費がかかり、それはちっとも「増収にはつながらない投資」だということを、そして公費で補填はしてくれないということを、大蔵省はどうお考えか? 百歩譲って、通貨の単位に「2」が加われば便利だと言うのなら、2円玉、20円玉、200円玉、2万円札も作ってくださいよ。 無意味なダムなどの建設見直しが進められている一方で、新幹線建設計画は花盛りの予算編成です。地方分権が唱えられる中で、過疎を助長し中央集中を加速させるだけの新幹線効果を、なぜシャチリキになって推めるのか、理解に苦しみます(いや、理由はミエミエです)。 20世紀の締めくくりが、ぐっと低次元な話題になってしまいました。お許しを。 新しい世紀に 、新しい夢を! 皆さん、どうか良いお年を! |