Weekly Spot Back Number
May 2000


35  ルンデ、20年目に入る  5月 1日版(第1週掲載)
36  ルンデ、20年目に入る(2)  5月 8日版(第2週掲載)
37  社会的弱者 5月15日版(第3週掲載)
38  ニホンゴの行方 5月22日版(第4週掲載)
39  リップサービス 5月29日版(第5週掲載)



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2000年5月第1週掲載

●ルンデ、20年目に入る
Teddy  5月到来。ルンデは開館20年目に入りました。
 1981年4月25日『オープンを記念する集い〜会員演奏会』、同30日『開館前夜祭=宮沢明子〜ピアノ・リサイタル』、そして5月1日正式オープン、5月14日『第一回例会《若き音楽家を迎えて》古澤 巌〜ヴァイオリン・リサイタル』、6月2日『ラサール弦楽四重奏団〜現代音楽の夕べ』……19年前の事が昨日のように思い起こされます。
 オープニング・セレモニーの中で「人口300万の名古屋に、こういったスペースがどんどん出来て欲しい」と述べました。個性ある活動でお互いが存在を主張しあえば、聴衆の選択肢が増え、クラシック音楽ファンが増加するだろうと願ったのですが、残念ながらそれは叶わなかったようです。おりから、東京渋谷の「ジャンジャン」がその歴史を閉じるというニュースが入ってきました。先のカザルスホールの自主活動停止も含め、いろいろと考えさせられるこの頃です。
 それはさておき、ルンデの例会が最初から「若いアーティストの紹介」と「20世紀の音楽を」であったことにも、あらためて感慨を覚えます。
 当時まだ東京芸大の学生だったヴァイオリンの古澤巌は、一風変わった個性と主張を持ち、すでに現在の姿を仄めかせていましたが、その後数回の来演の度に、一層その色合いを強めていきました。
 一方、現代音楽の旗手として、当時の日本の音楽界に敢然と20世紀の室内楽をプログラムに掲げて乗り込んできていたラサール弦楽四重奏団は、その後も来日の度にルンデでその研ぎすまされた演奏で我々を魅了、その真価は1985年の「アルバン・ベルク生誕100年」での「抒情組曲」についての講演と演奏で頂点に達した感がありました。そして今はもう活動を停止し待った彼等は、またアルバン・ベルク・クヮルテットの師匠としても知られています。
 ルンデの会の古い会報を開いてみると、そこからは19年の時の流れを、痛切に感じさせられる事ばかりです。

 さて、活動開始以来「若いアーティストの紹介」と「20世紀の音楽を」は、ルンデの命題であり続けています。
 前者はいま「ルンデあしながクラブ」にひとつの結果を見ることが出来ます。
 来るべき新世紀を迎えるに当たって、今世紀の成果に少しでも多く接しておこうという趣旨で、ルンデの例会には「20世紀の音楽を」積極的に取り上げてきました。しかしながら、それが一部には「ルンデは通ぶっている」と言う誤解を受けているようで、大変悲しく思います。20世紀に生きた人間として、同じ世紀の芸術作品をよりよく理解評価し次の世紀に確かに伝えていくことは、一音楽ファンとしても有意義なことだと思うのですが。
 来年5月の“満20年”に向けて、これからも派手な『周年行事』ではなくあくまでルンデらしく、一つひとつ意味あるコンサートを重ねて行きたいと思っています。

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 2000年5月第2週掲載

●ルンデ、20年目に入る(2)
Teddy
 ゴールデンウィークは、二人の17歳によって引き起こされた無惨な事件のために一気に色褪せてしまった。これらの、「人の心」のいわば常識を真っ向から無視する少年達の「誕生」は、20世紀の所産としてはあまりにも痛ましい結末である。――が、今はそのことには触れない。

 さて、そのゴールデンウィークの最後の日7日(日曜日)、ルンデでは「バルトークから獲たもの」と題した、クヮルテット四組によるジョイント・コンサートが行われた。出演したグループは、すべて昨1999年11月のバルトーク弦楽四重奏団による公開レッスンを受講している。それがタイトルの所以である。
 ルンデでは、折角訪れた世界的なアーティスト達が、音楽を志す人たち、また音楽に心を寄せる人たちに、コンサート以外にも刺激を与えてくれるようにと、公開を前提とした講座やレッスンの機会を、事情の許す限り持とうと心してきた。開館第1年の、オーボエ奏者宮本文昭による公開レッスンを皮切りに、ホルンのペーター・ダム、チェロのアンドレ・ナヴァラ、同じくボリス・ペルガメンシコフ、ピアノのアンネ=ローゼ・シュミットボロディン弦楽四重奏団、(そして幻に終わったソプラノのエリザベート・シュワルツコップ!)などが公開・非公開のレッスンを引き受けてくれた。またタチアナ・ニコライエワ(ピアノ)は再三にわたりバッハやショスタコーヴィッチについての感銘深い講話を行い、またラサール弦楽四重奏団は、アルバン・ベルク生誕100年の1985年の来演時には、第1ヴァイオリンのワルター・レヴィンによる「ベルクの抒情組曲分析」という興味深い講義を、クヮルテットの実演を含む豪華な内容で行ってくれた。
 なかでも、バルトーク弦楽四重奏団は、3回目の来演である1987年に始めての「室内楽公開レッスン」を行い、以後、隔年の来日時にそれは続けられてすでに7回に及んでいる。そして1995年、受講者達がその受講の成果を練り上げて発表するコンサートが始まった。誠心誠意熱のこもった指導を繰り広げるクヮルテットから、いかに貪欲に吸収したかを誇示する意味から、殊更このコンサートシリーズには「バルトークから獲たもの」と命名した。今回で3度目となったシリーズは、そのタイトルに恥じない素晴らしい演奏が続いている。
 この7日のコンサートでは、ともに難曲である「バルトークの第2番」「ショスタコーヴィッチの第8番」がとりわけ印象に残る好演であり、若い世代が積極的に20世紀の音楽に取り組み、着実に吸収消化しつつある様を実感し得たことは、何よりの収穫であった。そして彼等は、もう来年6月にやってくるバルトーク弦楽四重奏団を心待ちにしているようである。
 20世紀の(敢えて「現代」と言わない)音楽に取り組むには、何よりも若い感性とエネルギーが必要である。その若々しい「力」の魅力に惹きつけられつつある人たちが、僅かづつではあるが増加している感触が確かに得られた一日でもあった。

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 2000年5月第3週掲載

Teddy●社会的弱者

 いまの世相を見ていると、社会的地位や権力を握るもの達が、自らの責務を忘れ、職を汚して恬として恥じず、無防備な一般庶民が一瞬にして信じがたい事件の犠牲者にされてしまう、異常な様相を呈している。
 精神肉体とも健全で、常識人であり、遵法精神に富み、義務は遂行するが権利は主張せず、ささやかな平安を望んで生きている人々は、かのデュマがモンテ・クリスト伯となったエドモン・ダンテスに語らせている言い回しをまねれば「その人を罰するときにしか機能しない法律や政治の仕組み」のもとでは、社会的弱者の最たるものであろう。――閑散な休日の午後、たまたま自宅の車庫の前の広い一方通行の路上に出した車に駐車違反のレッテルを貼られても取り下げて貰うチエもツテもなく(それにしても繁華街の日中、違法駐車で通行車両がどれだけ迷惑を蒙っているか、ケイサツさん何考えてるの)、厳重な審査と煩雑な手続きの上に充分な担保を取られた僅かな借金は債務放棄してもらえず(根っから返す気がなくダボラ吹いて莫大な金額をもちかけた方がカンタンに貸してくれて、最後は棒引きして貰えるようだ)、たとえ理不尽な相手の言い條に我を忘れあり合わせのモノを凶器にしてしまったとしても多分心神耗弱状態とは認定されず(日頃健全な人間は、どんなことがあっても狂えないのだ、悲しいことに)……あってはならないことだが、思わず「健全」であることを嘆きたくもなるというものだ。

 話は全く変わるが――病気療養中だったらしい小渕前首相が亡くなった、と新聞・テレビが報じた。らしいというのは、具体的な報道が一切なかったので「生死不明」だったからだ。ウカとしたらお家騒動になるから――政界挙げての前時代的配慮の結果であろう。だが、小渕氏には申し訳ないが、森首相が活動を開始したと同時に、小渕氏に対する一般の関心は薄れ去ったのでは無かろうか。青木氏が「頼む」と言われたかどうかなどはどうでもいいことだ、という無関心が一般庶民の大半であろう。
 ところで、始めて(で、恐らく最後の)医師団の記者会見をテレビで見るともなく見ていたが、その言葉遣いには、正直言って驚かされた。最大級の敬語の連続である。斯くも、一国の総理大臣閣下というのはとてつもなく偉い存在であるのか。その割には、本名も名乗れずこっそり入院召されるとは、おいたわしいことである。
 NHKのアナウンサーの「小渕前首相が逝去しました」にもびっくり。こんな日本語あるのかいな。――もう凡人にはワカランことばかりである――いっぱいやっか、手酌でな、熊公……。

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 2000年5月第4週掲載

Teddy●ニホンゴの行方
 またまた日本語の発音のことで恐縮ですが、やっぱりひとこと言いたくなりました。NHKテレビのベテラン女性アナが読むニュースの中で……前後の正確な文章は忘れましたが、こんな風でした。『業界からのニーズがあれば云々』――で、問題はニーズの発音で、これを何のためらいもなく、日本語で言えば「構図」のイントネーションで、つまり尻上がりで言ってのけたのです。この「ニーズ」なるもの、一体何語なんでしょうか。
 私は言語学者ではありませんから偉そうなことは言いませんが、漢字仮名混じりの日本語では、漢字の方はほとんどが「表意文字」だと思います。耳から聞いたときの「音」が同じでもイントネーションが問題で、それを聞き分けてそれぞれに該当する文字が当てられ、またそれが同じならば前後の文脈から判断して意味をなす文字を判断しています。だから、『盆踊りは村の大事な行司です』や『まだ冷たい志摩の海に尼さんがアワビ採りに潜ります』は困るのです。で、先の 「ニーズ」には聞き手の方は一瞬とまどわざるを得ません。これが英語の「needs」であろうことは想像できますが、しかしそうだとしても、この文章の意味を明瞭に表す日本語がないとでも言うのでしょうか。要望、希望、需要など、その時の内容をより的確に表現できる日本語の単語が存在するはずです。しかも尻上がり発音では……。
 日本語にせよ外来語にせよ、この種の発音についてつくづく不思議に思うのは、言葉を最も大事にするべき職業の人たちが、少なくとも20年以上使ってきた発音を、どうしていとも簡単に変更できるのかということです。
 流行の発端となった感のある「カレシ」や「クラブ」などの若者発音は、いわば業界用語と同じく「自分たちの社会」だけで通用する約束を楽むところから出てきたのものでしょう。だから「尻上がり発音」や「イントネーション逆転」は、決して「一般社会現象」ではないはずです。森首相の発言問題で、またぞろ公人・私人が論じられていますが、さしずめ放送メディアのニュースを読み上げる人は、その時点では公人であるべきでは? 喫茶店で『レスカ!』と注文したり、レジ係にお客が『お愛想を』とやったりするのは他愛のないことと笑って過ごせましょうが、もしニュースで『汚職容疑で現職高官がパクラレました』とか『森総理がオリンピック代表団とメシヲクイナガラ歓談しました』とか『有珠山周辺は大変ヤバイ状況にあります』なんて言ったらどうなりますネ? 

 ある民放テレビでは、若い男性アナが『神社にお参りしてゴリエキを……』と読んでいました。「利益」は、通常の使い方、つまり自分で稼いだりしたときは「リエキ」ですが、譬えば神仏から授かったなどの場合は「(御)リヤク」というのが(意識、無意識は別として)使い馴れてきた日本語であるはずです。
 プロ野球の実況で「解説者」が『ここで、勝たないと。首位とのゲーム差が1になるのと3になるのとではオオマチガイですからね』とやっていたのには、もうオソレイリました。

 こういう場面に絶えずぶつかっていると「話す人」の職業意識はどうなっているのだろうかと、考え込んでしまいます。

 「言霊のさきわう国」と言われた日本の面影は、いまやくだらないダジャレやこじつけ当て字だけにしか残らないのでしょうか。


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 2000年5月第5週掲載

Teddy ●リップサービス
 リップサービスの季節がやってくる。言うまでもなく「衆議院議員選挙」のことである……とは言い過ぎかも知れないが、何せこの期間は一般市民に向かって『有権者の皆さま方』云々とムヤミヤタラにへりくだって相手を奉り(某「大物」政治家氏に至っては『お訴えさせていただきます』なる珍表現を創出してまで)ご機嫌を取り結ぼうとする。そして限りなく薔薇色の「公約」なるものを開陳するのだが……。「お陰様で当選させていただいた」暁は、皆さま方のご意向とは無関係に走りがちで、住民投票請求の事態に立ち至ると(それが起こることがそもそも政治が民意を反映していない証なのだが)選ばれたオレたちに任せておけと開き直る。彼等が選挙期間中に述べた言葉は、その時しのぎのものだったのだろうか。
 いま盛大なリップサービスで物議を醸しているのが森首相だ。神道議員連盟の会合で『日本は神の国であることを国民に承知してもらう』とブチあげた。私学関係者の会合では『私学こそが日本の教育を支えている』とやった。多分、仏教徒の集まりでは『聖徳太子以来、日本は世界に冠たる仏教国である』と宣うだろうし、公立教育機関の会議では『日本の将来は国公立学校教育関係者の双肩に懸かっている』とオダテ上げるだろう。
 だから、彼の発言は気にしないことにしよう。要するにそのときその時の状況に合わせてソツなく振る舞っているだけのことだ。だから、その発言に大した根拠も意味も無い。
 だが、そのリップサービスの才に長けた「首相」に一国の行方を委ねようとするとき、彼がどのような信念と方針を持っているのか聞きたいとき、一体誰に語らせることになるのだろう。メモにあること以外シャベルなと、第三者から釘を刺される人の持つ「メモ」は、誰の作なのか。自らの心を自らの口で語れないとしたら――それは、空しさを通り越して、そら恐ろしくさえなる、日本の政治の本質は、そんなものなのか、と。
 
 だが、上質なリップサービスは、瀟洒なユーモアのセンスに包まれ、適度の皮肉というスパイスの利いたものでありたい。そうでなければ、リップサービスのつもりが、聞き手の方がムズ痒くなるだけの、空虚な媚び諂いに過ぎない。


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