Weekly Spot Back Number
Nov. 2000


62  「IT」チャチャチャ…… 11月 6日版(第2週掲載)
63  楽しい発見 11月13日版(第3週掲載)
64  何をかいわんや 11月20日版(第4週掲載)
65  ニコライエワの想い出(1) 11月27日版(第5週掲載)



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 2000年11月第2週掲載

Teddy●「IT」チャチャチャ……
 森首相の音頭取りで政府が「IT」熱で盛り上がっている。「国民があまねく恩恵を蒙るように」高速通信回線の整備に全力を挙げるそうである。しかし、首相はじめお偉方は現実の「IT事情」についてどれほどの理解を持っておられるのだろうか。ふと、その昔、ある私立の音楽大学が開校した折り後援会長氏の挨拶が「私は、音楽と言えば浪花節ぐらいしか嗜みませんが……」で始まったのにはドギモをぬかれたことを思い出した。
 ともあれ、各地に立派な建物をおったて「文化発信!」「文化発信!」とはしゃいだ、あのむなしい騒ぎの二の舞にならねばいいのだが。まず最初にお金を出して形のある物を作ってしまえ、という発想が相変わらず罷り通っていることに、何とも言えぬやりきれなさを感じる。
(先月末のハードスケジュールに加えてすっかり風邪をひきこんで、思考力が低下し、このコラムが「周回遅れ」になりそうなピンチに陥ってしまった。今回はこの短文でお茶を濁させていただく。ご容赦。)

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 2000年11月第3週掲載

Teddy●楽しい発見
 懇意にしている東京のエージェントから、水戸室内管弦楽団と読売日響の定期でショスタコーヴィッチの協奏曲を弾くために来日するイタリアのピアニストがいるが、そちらでリサイタルなど如何?と連絡が入った。名はマリーサ・タンツィーニ、寡聞にして初めて耳にする。プログラム案は三つあって、二つはモーツァルトやショパンの並ぶありきたりなもの。だが最後のは「前奏曲、フーガとコラール」と題して、バッハ、ショスタコヴィッチそれにフランクである。たちまち食指が動いてしまった。電話の向こうで「多分そうだろうと思った」と笑っている。何のことはない、チャンと足元を見透かされている。いまいましいが、充分な期待がもてるので「買う」ことに決めた。送ってきた資料に付いてきた写真をみると、何となく「コワソーなオバサン」ではある。ままよ、ここは一番、当日を楽しみにすることとした。
 さて、その日……写真通りの彼女が現れたが、ふっと浮かべる微笑がとてもチャーミングで安心。リハーサルを始めたのを聴いて、思わず唸ってしまった。その音の美しく「力」のあること――あらためて、楽器というのは演奏者によって様々な響きを発するのだと言うことも思い知らされた。
 バッハの「平均律」は第2巻から5曲、第1巻から1曲。特にフーガの部分で、ポリフォニーの構造を明確に浮かび上がらせるテクニックの冴えはどうだ。かつてルンデで聴き馴れていた、今は亡きタチアナ・ニコライエワ女史のそれを彷彿とさせる素晴らしいバッハであり、ニコライエワ同様、彼女も深く力強いタッチが、ズシリズシリと床に伝わってくるようだ。そして味わい深いその演奏たるや、同じ「第2巻」を先月同じピアノで弾いた小山実稚恵は、これに比べれば、失礼ながらまだまだほんのひよっ子だと思わせるほどのスゴさがあった。言うなれば、現代のピアノによるバッハ演奏のあり方の一つを見せつけられた思いがあった。
 本番、バッハと切れ目無く弾いたショスタコーヴィッチの「24の前奏曲とフーガ 第9番」のさりげなさ。フランク「前奏曲、コラールとフーガ」にみせた溢れ返らんばかりのロマンティシズム。これらはプログラムの見掛けが持つ難解さとは全く異なり、音楽の多様性を何の苦もなく理解させる名演奏と言うべきだろうか。ただ、当日「至福の時」に立ち会えたのは、ほんの僅かな「好奇心に満ちた勇敢な人々」だけであったのは、毎度のことながら、まことに残念である。
 8月のモラヴィア弦楽四重奏団もそうだったが、こんなアーティストが、あちこちにごろごろしているのかと思うと、やはり世界は広い、と、つくづく考えさせられてしまう。そして「新しい発見」に成功することも、文句無く楽しい。だから、止められないのだが……。

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 2000年11月第4週掲載

Teddy●何をかいわんや
 オーストリアでケーブルカーがトンネルの中で炎上し、百数十名の犠牲者が出るという痛ましい事故が発生した。ヨーロッパアルプスは至る所に麓から山頂を目指す様々なスタイルの登山鉄道・リフトがあり、山を刳り貫いた「地下施設」も多く、大都市の地下街・地下鉄の関係に匹敵し、日常的に多くの人々に利用されている。そしてここでも、予測できない突然事故が起こり、その対処方法には決め手が無く、我々の生活は常に危険と隣り合わせにあるのだ、と思い知らされる。もちろん「……たら、……れば」の予防策、防災法はあったろうが、なによりも現実には意図的な理由無く計り知れない規模で、起こるものは起こる。
 特に人間が絡んだ工作物の場合は、その「運命」を作者も知らぬ。現代科学技術の結晶の筈の宇宙ロケットでも、微細な故障の発生は日常茶飯事であり、最悪の場合スペースシャトルの爆発という事態もあった。古くは日航ジャンボジェット機、最近ではエアバス、コンコルド、ロシア原子力潜水艦事故でも、「ハイテク技術」は人間を守りきれず、いったん発生してしまった事態への対処に関しては如何に無力であることか。
 たとえば、自動車に関して、事故回避の名目で研究開発されているハンドル・ブレーキ操作等を「補助」する自動操縦などハイテク技術頼みの高性能化は、結局は「制御装置が変調を来さない限り」という条件付きであるのだから、果たして「人を守る」という大義名分から考えて、必要かつ妥当なものなのだろうか。「人が人を守る」を信ずる事が原点にあることを忘れてはなるまい。
 ましてや、絶対安全な原子力装置などあり得ない。ハイテク産業が栄える限り、止めどもなく膨れ上がる電力需要を支える基盤について、政府も産業界ももっと本腰を入れて考えて欲しいものだ。結果として、やはり原子力による発電以外に打開策がないという説得力ある結論が出れば、危険と隣り合わせであるという事をみんなが承知の上で、さらに万一の事故の時の現在考え得る最善の対処法を承知した上で、建設・運用せざるを得まい。政府は「IT」騒ぎに浮かれて莫大な国家予算を無駄にばらまく前に、なぜもっと足下をしっかり見据えた政策を考えようとしないのか。早い話が、下水のないところに光ファイバーが来てどうしようというのだ?
 もっとも「電気の無いところではケータイを使えばITの恩恵に与れる」という、あの有名な「パンがなければケーキを食べればいいのに」に匹敵するスバラシイ発言が飛び出すようでは、とてもてとも「人々の将来を見据える」などという高邁な思想は伺うべくもない。
 「長い時間も刹那の連続である」という誤ったロジックに落ち込んでしまった昨今、なにに希望の光を求めることができるのだろうか。

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 2000年11月第5週掲載

Teddy●ニコライエワの想い出(1)
 毎年11月末になると、ルンデと極めて親しかった一人のアーティストのことを思い浮かべる。今世紀ロシアの生んだ偉大なピアニスト、バッハ演奏の権威としてあまりにも名高かったタチアナ・ニコライエワ女史である。
 1993年11月13日、アメリカ演奏旅行最後の公演地サンフランシスコのステージで、最も敬愛する師であり親友であり仕事仲間でもあったディミトリ・ショスタコーヴィッチの「24の前奏曲とフーガ」を演奏中に倒れ、そのまま意識を回復することなく、逝った。翌年の「ニューイヤー・コンサート」で恒例の『ゴールドベルク変奏曲』を演奏するためルンデを訪れた小林道夫氏の言葉を借りるまでもなく、「演奏家冥利に尽きる大往生」であったと言えよう。
 1993年12月の「ルンデの会会報」から引用する。
 11月24日(水)の夕方、新聞社に勤める会員のAさんからルンデに電話がかかってきました。“夕刊見ました? ニコライエワさんが亡くなりましたよ”。びっくりして配達されたばかりの新聞を広げると、「11月13日、アメリカ公演の最終地サンフランシスコで演奏中に、脳大動脈瘤の破裂で倒れ入院、意識不明のまま22日死去」と……。
 折しも、彼女の来演の度に通訳として同行していた東京のMさんから電話。“お聞きになりましたか、ニコライエワ先生が亡くなったことを。え? もう新聞に出ていますか? 私はレコード会社から連絡があったので、確認の為にモスクワに電話したんですけど。ロサンゼルスで2〜3日前に倒れて入院されたって。だから息子さんたちは22日にモスクワを発たれたそうです。え? サンフランシスコなんですか……じゃその日本の新聞報道の方が正確でしょう……”。
 今年6月は、ルンデ開館以来7度目の来演でした。殊に新しい愛知県芸術劇場コンサートホールでのコンサート(例会が初めて外部会場に出ました)を、本当に喜んでくれた彼女が、もう……。ニュースに接したルンデのスタッフ一同は、まさに声を失いました。
 そして、「音楽」の権化の如きニコライエワ女史、あの愛すべきタチャーナおばさん……もう二度と、そのやさしい笑顔に接することの出来なくなった偉大なピアニストに、追悼の言葉を述べるより、まずその想い出を振り返る為に、この12月と来月の会報のページを割くことを、どうかお許し頂きたいと思います。

オープン365日目に初登場
 ルンデが正式に開館のお披露目をしたのは、1981年4月25日でした。そしてタチアナ・ニコライエワ女史の例会初来演は、奇しくも丁度365日目に当たる1982年4月24日だったのです。
 すでにラサール弦楽四重奏団、バルトーク弦楽四重奏団などその後「常連」となる外来アーティストを迎えていたルンデにとっても、“バッハの神様”として知られた彼女の登場はやはり言い知れぬ重味を持っていました。プログラムはもちろんバッハ――“平均律”第1巻全24曲。200人を超える聴衆は、ステージの上まで溢れる程でした。『お客さんもピアノも、ルンデの何もかもがお気に召したニコライエワさん、一周年に招かれたことは大変な名誉、とアンコールのステージでピアノに記念のサインを残して下さいました』と当時の会報(82年5月号)は伝えています。いまも YAMAHA CF のフレームには、五つのサインが彼女の貴重な思い出として残っています。
 そして翌25日は“バッハを語る”――自身の生い立ちを幼い頃の環境から説き起こし、やがてバッハの音楽に傾倒してゆく道程を、時折ユーモアをまじえながら語った2時間は、自らその人柄がにじみ出て、バッハの小品の珠玉の様な演奏と共に、我々の心に深く暖かい感銘を残しました。
 この時はご主人が同行されていました――黒のスーツに黒の蝶ネクをきちんと着こなした白髪長身の紳士、技術者――。彼女のご主人に対する心遣いはまことに細やかでした。とりわけ微笑ましかったのは、車に乗ったりして移動する度に、彼女が何か単語をパッ、パッと言う、そうするとご主人が、頭、胸、脇、お尻と次々に手をやるのです。何をしているのか尋いてみると、『帽子は? お財布は? カメラは?』などと、その都度持ち物を確認していたのでした。『この人は日本の女性の着物姿が珍しいので、駅でも何処でも、見つけるとカメラを持って追っかけて行っちゃうんです』と愛情の籠った眼差しをご主人に向けていた表情が印象に残っています。
 最初のルンデ登場について、もう少し当時の会報(82年5月号)から振り返ってみましょう。

** まるで映画みたい **
(2時間半に及ぶ長いコンサートを終え)……控え室に戻って来たニコライエワさんを、御主人が両手をひろげて迎えられました。長身の旦那様の中にすっぽり入ったニコライエワさん。しっかり抱き合って二言三言……『うまくいったかしら?』『疲れただろう?』とおっしゃったのかどうか……サッパリわかりませんが、もう、それは、まるで外国の(当り前だ!)映画を見ているようでした。

** 鼻が高い **
(『バッハを語る』のステージで)『もうソヴィエトからのアーティストは来たのか? と、いささかの嫉妬心をおぼえながら尋ねましたところ、私が最初である、ということで……』と、ここでクルリと横を向いて、天狗のハナをあらわす手つき。通訳さんの言葉を待つまでもなく会場は大爆笑。その時の彼女は、写真で見ていたいかめしいような表情はなく、ルンデへの愛情をいっぱいたたえた、やさしい笑顔でした。

アンケートから
○長いこと BACH とおつきあい(?)してきてよく知っているつもりになっていたのに、今夜は BACH の特に“平均律”が、こんなにも内面的な音楽であることに驚きました。音の軽さ――も驚きでした。人生を……バッハの人生を、そして私の人生を少し深刻に受け止めすぎていたのでしょうか。どんな甘いやわらかい音も、ノンレガートで演奏されているのが印象的。“平均律”をもう一度弾いてみる勇気をもらいました。
○すばらしかった。ニコライエワさんには、優しさの側に立つすべての形容詞の最上級の言葉と、感嘆の讃詞をお贈り致します。

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