Weekly Spot Back Number
Oct. 2000


57  誕生したてのコンクール(1) 10月 2日版(第1週掲載)
58  誕生したてのコンクール(2) 10月 9日版(第2週掲載)
59  二人の挑戦 10月16日版(第3週掲載)
60  スポーツあれこれ 10月23日版(第4週掲載)
61  話にならない話 10月30日版(第5週掲載)



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 2000年10月第1週掲載

Teddy●誕生したコンクール(1)
 例の愛知万博問題で最近注目されている長久手町は、名古屋市の東郊、愛知県立芸術大学をはじめ三つの大学キャンパスを持つ田園・学園都市とでも言おうか。その町の中心から少し離れた丘陵地に総合施設「長久手町文化の家」があり、それぞれ「森のホール」「風のホール」と名付けた中小二つの落ち着いた雰囲気のホールを持つ。
 オペラ上演も視野に入れた造りとなっている「森のホール」で、先月下旬『長久手オペラ声楽コンクール』が産声を上げた。国際的規模のコンクールを目指し、文化庁の支援も受けて三年に一度のペースで実施される。特筆してよいことは、入賞者に一年後のリサイタルが予定されている(むしろ義務づけられている?)ことだ。コンクールの報償としては名誉も賞金も勿論魅力ではあるが、演奏する機会を与えられる事がもっとも価値があろう。案内のパンフレットに拠れば、第1回はドイツの指揮者フォルカー・レニッケ氏を審査委員長とし、日本・ドイツ・ベルギー・スウェーデンの声楽家が委員に名を連ねている。地方都市で開催されるコンクールは最近増えてきたが、兵庫県養父町の「チェロ・コンクール」と並んで小規模自治体での開催であろう。
 初回であるしどんな応募者なのかにも興味はあったが日参もならず、「夏の甲子園」で言えば「準々決勝戦」を観る感覚で、9月22日その「本選会」を覗いた。
 金1000円也を払い数葉の印刷物を貰ってホールに入ると、客席は如何にも「関係者」らしき女性達が多数陣取り、チラホラ「一般」らしき男性の姿も散見された。座り心地の良い座席に腰を下ろし、さて本日の出場者は、と先程の印刷物を繰ってみたが、それはホカのコンサートなどのチラシでばかりである。はて?と思っていると、同様に困惑したらしい中年の紳士が案内嬢に「今日のプログラムってのはないの?」と尋ねている声が耳に入った。「ロビーに貼ってあります」が簡潔な答。見に行くと番号(所謂エントリーナンバーと云うヤツか)と氏名だけが簡潔に列記してある。声域も歌う曲も皆目分からないが、考えようによっては変な先入観無しに聴けて「まぁいっか」と席に戻った。ところがそこへ顔見知りの男性(聴衆)がやって来て、いきなり『今日の何番目の人はどこどこ出身で、何番目は今こう活躍していて……』と、自分の知り人について講釈し始めたのにはまことに弱った。
 それはともかく、定刻に審査員が着席しコンクール本選が始まったが、エントリーナンバーと氏名がアナウンスされたのみで、コンクールの趣意や選抜方法の紹介や、全体の参加者からどれだけがこの本選会に残ったか等の情報は一切開陳されず、審査員の紹介すらなかったのはちょっとオドロキであった。あるいは第一次予選の初日には説明があったのかも知れないが、これでは「関係者」以外には何も判らずじまい……というより「第三者」は全く歓迎されていないようで、一般に公開されている意味が無く、折角の企画全体がひどく内輪なチッポケなものに色褪せてしまったように感じ、相当の期待を持ってやって来たものにとっては、何とも釈然としない運営であった。
 コンクールの内容等については、次回に触れる。(続く)

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 2000年10月第2週掲載

Teddy●誕生したてのコンクール(2)
 さて、本番。出演者10名、うち男声2名。
 「本選会」を聴き終わっての感想をはじめに言ってしまうと、男声の圧勝であった(事実、発表された審査結果もまた、男声が1・2位を占めた)。何が違ったかと言えば、「表現力」または「表現しようとする意欲とその具現」であろうか。最初の3〜4名のソプラノ嬢達は、なるほどまずまずの「美声」とそれなりの「技術」は持ち合わせていたが、如何せん表情の乏しさは歴然たるものがあり、声楽の持つ本来的な魅力に欠けたのは残念である 。
 所謂「生演奏」は、聴覚的なものに加えて視覚的要素は不可欠であり、また演奏効果に多大な影響を及ぼすのは自明の理である。今回の場合、顔の表情はもとより、身のこなし、特に手の扱いが研究不足で、それが著しく興を削いでいたのは問題だ。中には、ピアノに手を掛けて歌い始めたのはいいがそのまま硬直してしまったような場面もあり、自然な動きに加えて、充分に計算されたさりげない「演技」もまた必要である事を忘れないで欲しいと痛感した。
 優勝した唯一の外国籍(韓国)バリトン氏と、2位のバス氏は、その点充分な説得力ある舞台姿であった。強いて望むならば両者ともに「豊かな弱音」を、バス氏はより深みのある響きを追求していただきたい。
 コンクールの結果などは翌日に知ったのだが、上位入賞者は概ね予想通りであり、それなりの水準には達していたと思うが、次回以降は、是非受験者の拡大に務め、より高いレヴェルを目指して欲しい。なお、「特別賞」に唯一の県内参加者が挙げられていたが、失礼ながら俗に言う「地元に花を持たせる」色合いが濃く、如何なものかと思った。前述の運営問題も含めより透明性を高め、名実共に権威あるコンクールに育って欲しいものである。
 なお、聞くところによれば、コンクール受験者は、望めば各審査員から個別に講評を聞くことが出来るシステムを採用しているそうだが、これは評価できる試みである。また、来年、今回の入賞者は同ホールでの リサイタルが義務づけられているが、これも楽しみである。
 「誕生したてのコンクール」の今後の成長ぶりをじっくり拝見するとしよう。

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 2000年10月第3週掲載

Teddy●二人の挑戦
 10月はじめ、二週続けて女流アーティストの「挑戦」を聴いた。小山実稚恵山崎伸子である。言うまでもなく、ピアノの小山、チェロの山崎、ともに日本を代表する演奏家として国際的に活躍し、いまやまさに「脂の乗りきっている」という形容が当てはまるだろう。その彼女らの興味ある「挑戦」に続けさまに立ち会えたのだから、幸せな一週間であった。
 まず小山実稚恵(10月8日ルンデ)
 大バッハ没後250年の今年に焦点を合わせて彼女が企画したバッハ・シリーズは、昨年10月の「前座」だった第1回のポピュラープロのあとは、今年4月の「平均律第1巻全曲」、今回の「同第2巻全曲」と弾いて、来年4月の「ゴールドベルク変奏曲」で締めくくられるもの。中でも「平均律」は、各巻それぞれ全24曲を彼女自身の考えで曲順を再編成するという画期的なものであった。
 『第1部は、バッハの色々な試みを正々堂々と表現できればと考えて構成しました。
 第2部は、声楽的な響きを感じる作品を中心に、とにかく心が透き通るような雰囲気の作品を並べるように心掛けました。第1部と第3部になるべく躍動的なものや舞曲的な性格のもの、そして力の充実した作品を集めたので、それと第2部の性格の違いの対比をどう表現していくかが最も大きい課題だと思っています。
 第3部では、ソナタの原形を感じさせるような未来に向けて放たれている光と、音楽で表現されている陰を意識して並べてみたつもりです。受難曲や詩篇との関係など、楽譜の後ろに込められたメッセージを感じながら演奏したいと願っております。』(内容の詳細は彼女自身の「プログラムノート」を参照されたい)と述べているように、原作の、ハ長調から始まり半音階的に同主長・短調を配列して行った言わば「機械的」構成を、曲想の検討から全面的に見直した大胆な発想で再構築したもので、演者・聴者ともにそれまでの記憶を真っ向から否定してかからねばならないスリリングなコンサートとなった。無慮3時間に及んだこの日のリサイタルは、充足感と疲労感、新たな発見ととまどい、等々の混在したという意味で「希有な出来事」であったが、演奏家が強く自己主張した「貴重な時間」を実感し得たことを多としたい。
 なお、さすがの彼女もこのコンサートの直前の9月末は、多くの仕事を断って没入に務めたという。思い入れの深さたるや推して知るべしである。
 山崎伸子は10月15日(同じくルンデ)
 彼女はこれでルンデ来演が1983年以来実に20回を数える。これまでにピアノとのデュオのほかに、デュオ(ヴァイオリン、コントラバス)、ピアノ・トリオ、クヮルテット、弦楽六重奏、さらにはバロックの通奏低音など、様々な形で演奏してきたが、無伴奏ソロは初めてであった。
 その日彼女は常になく憔悴した雰囲気で現れ、まず我々を驚かせた。聞けば「さらってもさらってもうまく弾けなくて……」極度の緊張感で睡眠が充分にとれない状態が続いているという。さらには「今日は出演料返せと言われるかも」との弱音も出るのである。確かにバッハの「五番」とコダーイにレーガーのおまけが付くとあっては並大抵ではない重量級のプログラムだ。
 コンサートは、予想外とも思えるレーガーで始まったが、なに、心配するほどでもない結構な出来で、冒頭こそ幾分の固さが見られたものの、弾き進むにつれて彼女本来の闊達な音楽が溢れ出て、おのずから「さらいにさらった」効果が充分現れていたのはさすがで、コダーイは名演と謳っても過ぎることはないと感じた。しかし、終演後いささかホッとした面持ちでもらした「でも、わたしはやっぱり室内楽の人間みたい」とのつぶやきもまた、いつまでも心に残るものがあった。
 いずれにせよこの二人のトップ・プレイヤーが敢えて挑戦したコンサートは、本人にも周囲にも大いに意義あるものであったことは確かであり、深甚なる敬意を表すとともに、今後一層新たな境地を開拓されんことを期待するものである。

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 2000年10月第4週掲載

Teddy●スポーツあれこれ
 シドニー・オリンピックに続くパラリンピック、プロ野球ではワールド・シリーズと日本シリーズ、サッカーはアジアカップ etc. etc. と、新聞・テレビは賑やかなことである。
 われわれ「外野席族」には、いろいろ面白いことがあった。
 オリンピック女子マラソンで高橋尚子が金メダルを獲得したと時を同じくして、日本のプロ野球セントラルリーグではジャイアンツが優勝した。ともに「勝つべくして勝った」のだが、その中身が全然違うところが面白い。どちらも資金力があってのことだが、片や自らの肉体を鍛えに鍛え上げた結果、片や出来合の戦力を買い集めただけ……。もっとも、ここで一番不可解なのが、一応功成り名遂げた強者どもが、何故ガキ連中と等しく「巨人のユニホーム」に憧れるのか? だ。自らのキャリアに対するプライドは無いのだろうか。
 日本政府の次元の低さにも呆れる。白川氏のノーベル賞受賞に対して、今までその存在すら認識していなかったにもかかわらず慌てて文化勲章を贈る。高橋尚子に国民栄誉賞など、人気取り以外の何物でもない。おまけに批判の声に慌てて、ヤワラチャンに総理大臣賞をなどとホザイている。他人が評価してくれなければ関心も持たないという、情けない体質を国家的立場で露呈する様は、馬鹿馬鹿しくて見ちゃいられない。
 馬鹿馬鹿しいと言えば、西武ライオンズの松坂大輔が、免停中でありながら運転し、おまけに駐車違反。それだけでなく、元オリンピック選手の「お守り役」が身代わりを計るとは、開いた口が塞がらぬ。スポーツマンというものは、何を措いてもまずルールに従うのが習性になって居るのかと思ったが、そうでもないとは恥ずかし い。こちとら普通人は、うっかり免許証(有効なヤツですぞ)を忘れたと気が付いた途端、気がひけて気がひけてコソコソと人目を避ける気分で運転するのに……。おまけに「駐車場が空いたら入れるつもりだった」とは、なんとも幼稚な言い訳け。それなら空くまで運転席を離れず待つのが「常識」であろう。マスコミに追われる超有名人だろうが、少年法の対象になる年齢の者だろうが、いかなる理由があるにせよ法治国家の法を冒すことに正当性はない。同じ立場にある大多数の人は、それに負けていないのだから。
 その松坂事件が報じられた日、イチローのアメリカ大リーグ挑戦が発表された。イチローの日頃からのクールな言動行動が、松坂の事件とは際だった対照を改めて浮き彫りにされた。もっとも、週刊誌に拠ればそのイチローにも「チチロー」なるケッタイな存在が取り沙汰されているのだが。
 サッカーではトルシエ監督がまたブレている。若い選手を鍛え上げてやっと世界の第一線にのしあげたと言うのに、相変わらず一戦一戦の結果のみ云々するオエライ組織が跋扈していては叶わない、と彼が愚痴るのもよっく理解できる。長島監督はあれだけの手兵を抱えていて尚且ついくら負けても、一向にその「手腕」について問われないのにネェ。
 アメリカ大リーグのワールドシリーズで、常勝ヤンキースと対するニューヨーク・メッツの監督は、かのバレンタイン氏である。パシフィック・リーグ万年Bクラスだったロッテを、折角見事2位に浮上させたのに、ジェネラル・マネージャー氏の気に入らなくてクビになった。そのGMのお眼鏡に叶った筈の次期監督の出した結果は無残だった。だが当のGM氏はいま、オエライ評論家として球界(を取り巻く世界、か)に重きを成しているのだからスポーツの世界も「判らない」ものだ……というより、いずこも同じというものか。
 最後にパラリンピック。義足で100メートルを、限りなく10秒台に近い11秒で走る選手がいるのにドギモを抜かれた。五体満足な我に、何の取り柄やある?

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 2000年10月第5週掲載

Teddy●話にならない話
 大方のマスコミで取り上げられているから、今更であるが、「お話にならない」ことが多すぎる。
 長野県新知事パッシングのお粗末。前県副知事をお相手に回して当選した無党派の田中氏を迎えた、長野県庁の幹部達のドタバタが全国に放映された。まぁ、あれを見て感心する人はあるまい。中央から天下ってきたわけじゃない、ちゃんとした選挙の結果だから、それを真っ向から否定するような態度は、テメエ達の担いだ候補が落選した腹いせとしか映らない。その後、県の部署ぐるみの選挙違反疑惑が浮上したりして、ますますその感を強くした。問題発言や態度を世間から責められた幹部は、早速平謝りだったが、これも情けない。余程気に入らなければ辞表を叩きつけるくらいの気概はないのか。もっとも新知事の方も、ちょっと文学的表現(?)にこだわりすぎている。「しなやかに」も連発し過ぎては値が下がる。かのフルトヴェングラー氏はその『指揮法』の中で「アマチュア楽団の指揮者は、やたらと抽象的な表現で楽員を困惑させる」という意味のことを言っている。
 一方、中央では、官房長官が更迭される騒ぎになった。中川氏の、次から次へと出てくる週刊誌的疑惑に対する抗弁も、何とも歯切れが悪かった。さらに後任の福田新官房長官は、事実関係の確認を迫られて「中川氏が明確に否定しているのだから、調査する必要はない」と明言している。これではまるで、本人が否定しさえすればいいことになりそうである。そう言えば大抵の土木事業にまつわる「談合」疑惑は、「談合あり」の情報通りに事が進んでも「当事者に確認した結果、その事実は認められなかった」という決着になっているのと揆を一にしている。官僚体質といわれても仕方あるまい。
 いずれにせよ、話にならない話が如何にも多すぎる。

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