Weekly Spot Back Number
September 1999


1  重兼芳子さんのこと 9月5日版(第2週掲載)
 ヴァイオリンは見た(1) 9月12日版(第3週掲載)
 台風とコンサート 9月19日版(第4週掲載)
 おしどりデュオ 9月26日版(第5週掲載)


Runde   このページへのご感想などを!     Pippo

 (1) 重兼芳子さんのこと  【1999年9月第2週掲載】


9月12日(日)の日本テレビ系列[名古屋地方は中京テレビ]の番組『知ってるつもり』は、 重兼芳子さんを取り上げます。芥川賞作家である彼女はまた、癌で亡くなるまでホスピスなどのボランティア活動にも従事されていました。


shigekane_bw1.jpg

重兼芳子
 1927年北海道に生まれる。
 79年『やまあいの煙』(文藝春秋)で第81回芥川賞を受賞。
 以来女性の立場を軸に小説、エッセイで多彩な文筆活動の傍ら、講演、コーラス、ホスピスでのボランティアなど旺盛に活動。
 著書に小説『ワルツ』(文藝春秋)、『闇をてらす足おと』(春秋社)、『たたかう老人たち』(女子パウロ会)、『聖ヨハネホスピスの友人たち』『平安なる命の日々』『ひとり生きる』(講談社)、『いのちと生きる』(中央公論社)、『たとえ病むとも』(岩波書店)、『死の意味、老いの価値』『愛に癒され愛に生きる』(海竜社)、『おだやかな死』(共訳・春秋社)、など多数。
 1993年8月死去。
【この写真は芥川賞受賞作『やまあいの煙』〔文藝春秋社 昭和54年刊)からお借りしました】

 著書『愛に癒され愛に生きる』(海竜社 平成5年刊)には、私の体の中に響くいのちの音」と題して、好きだったチェロのことが綴られています。多発性硬化症という難病で若くして世を去った名チェリストを偲んでいる、冒頭の部分を紹介します。

天才ゆえにたどる苦難の生涯
 私は楽器のなかでチェロが一番好きだ。
 チェロは女性の体型に似ていて、発する音は人間の肉声に最も近い。チェロの名手、例えばカザルスとかフルニエとか、私の愛したチェリストたちの多くはすでにいない。
 世を去った天才的チェリストの一人に、ジャクリーヌ・デュプレがいる。彼女が亡くなったとき、世界中の彼女のファンは涙が涸れるほど泣いた。もちろん私も泣いた。そして、デュプレが遺した名演奏の数々のテープを、抱きしめるようにして聴いたのである。……
愛に癒され

さよなら

さよなら


 死後1年、出版された『さよならを言うまえに』(春秋社)は、彼女の「生と死」講演録として8編が収められています。


 【縁あって】
 8月中旬 「……このたびはお知らせしたいことがありまして……」というファックスが届きました。発信者は 重兼裕子(ペンネーム)さん。彼女とはルンデの強制的な(?)手段によりご縁ができました。
 1998年、その頃私は 重兼芳子さんの本を何冊か続けて読んでおりました。そして重兼さんが大のクラシック音楽好きであること、中でもチェロが一番のお気に入りであることを知りました。たまたまその年、《ルンデあしなが推薦コンサート》で酒井淳のチェロ・リサイタルをすることになっていたので、東京でも多くの人に聴いてほしいという気持ちで、いささか乱暴な思い付きですが「案内を出そう!」と考えました。調べてみると、残念ながらその時、重兼芳子さんはすでに亡き人でした。お嬢さんの裕子さんがある本のあとがきを書いておられたので、彼女については全く知らないまま、もしかしたらおかあさまの影響で音楽好きかも知れないなど勝手に期待して、出版社気付でお便りをしてしまいました。
 コンサート当日、お目にはかかれませんでしたが、裕子さんは来て下さったのです。そして、弟さんとお二人でいらしたこと、音楽好きで、お二人ともアマチュア・オケでチェロを弾いていらっしゃることが受付に預けられたお手紙で解りました。「何と、まぁ!」と、今思い出してもワクワクするような喜びでした。
 その後も、ご案内するたびオケのお仲間に声をかけて来て下さるので、本当にありがたく思っています。さて、こんなご縁の裕子さんからのファックス、続きをご紹介します。
 「……母 重兼芳子が亡くなりまして、はや六年がたとうとしておりますが、平成十一年九月十二日(日)夜九時から日本テレビ『知ってるつもり』で、母の生きてきた道程をたどっていただけることになりました。この番組で皆さまお一人おひとりが、母との交流を思い出していただければ幸いです。……(追伸=放映はあくまでも予定ですので変更の可能性があります)」  この番組を、遠くルンデにつながる方の人生としてごらんいただけたらルンデも幸せです。実際には、ご存命中、何の交流も持ってはいなかったのですが……。   (峰)
 

up.gif

 (2) ヴァイオリンは見た 〜 その1  【1999年9月第3週掲載】


Teddy ●先週金曜日(10日のこと)車の中でお昼のニュースを聞こうとラジオのスイッチを入れたら、ちょうどそれが NHKの「私の本棚」で、『和波孝禧さんの「ヴァイオリンは見た」からでした』と終わったところだった。放送局に問い合わせてみたら、これは10回シリーズで「番組は第1放送で週日の午前11時33分からですが、和波さんのは今度の月曜日(15日)で終わります」とのこと、ここで紹介しても皆さんに聞いていただけない訳で、大変残念だ。……と書いてアップロードし(月曜朝)、さて出かける途中の車でラジオのスイッチをいれたら「・・第11回でした」??なんだ、まだ続くんじゃないの。電話口の向こうでパソコンをカチャカチャやって答えてくれた案内係のオッサンは何を間違えたのかな? と言う訳で、大丈夫だからどうぞお聞きあれ。
 
 ところで和波さんといえば、ルンデの例会への来演数では、邦人第3位のアーティストだ。因みに1位はあの「鬼才」中村攝クンでダントツ、次いでバッハ・イヤー、モーツァルト・イヤーの両シリーズを手がけ、「New Year Cembolo」が10年以上続いた小林道夫氏となる。

 和波さんは、ルンデ開館の年1981年から現在に至るまで、82年を除いて毎年「和波孝禧 ヴァイオリンを語る」と題してそれぞれテーマ性のあるプログラムを持って来ていただいている。
 最初の時「プログラムはどうしましょう?」と所属の音楽事務所から問い合わせがあったので「ルンデは、演奏家が今一番弾きたいと思っているものを聴きたいと考えている」と答えておいた。
和波孝禧  このことは和波さんには印象的だったようで、何回目かのステージで「ルンデはいつもボクの弾きたいものを弾けと言ってくれるので有難い。折角呼んでもらっても“チゴイネルワイゼン”や“カルメン幻想曲”ばかり弾かされてはねェ。もちろん曲が悪いとは言いませんが…」と語って聴衆の笑いを誘っていた。またいつも「障害者がヴァイオリンを弾いていることに注目するのではなくて、音楽家として認めて欲しい」ともおっしゃるが、20年近いおつきあいの中で、和波さんが目の不自由な方だと思ったことは一度もない。あるときなど電話で共演者の名前を「どういう字を書きますか」と尋ねて淀みない返事を頂き、電話を切った後で苦笑したこともあった。(この項続く)

up.gif

(3) 台風とコンサート  【1999年9月第4週掲載】


Teddy ●台風とコンサート
 
 特に9月は、コンサートを企画するものにとっては、心甚だ穏やかならざる季節である。
 何故といえば、つまり台風のシーズンだからだ。
 昨年の「オーケストラ・アンサンブル金沢第10回名古屋定期公演」はその影響をモロに受けてしまった。
 コンサートは予定通り行われたのだが、一部交通機関が不通となったため、通常の手段では来場できないケースが発生したのだ。
 はじめに申し上げておかなければならないことが二つある。一つは、一旦発表された催しは、会場が使用不能になるか、出演者が自身の理由で出演不能になるかいずれかの場合以外は、それこそ槍が降っても催さなければならないことだ。それは開催を発表し、チケットを販売した以上、当たり前のことである。さらに言えば後者の場合でも、(特に海外では)代演を立ててでも行われるのが普通である。今ひとつは、お客様がその催しのチケットを持っていることは、会場で席を占める権利を持つことであって、そこまで到達する手段について通常主催者が一切責任を持たない、ということで、これは常識から言って当然理解の範囲内であろう。
 その日、演奏者は、或いは東京から、或いは金沢から、とにかく所定の時間までに会場に到達すべく努力して顔をそろえた。コンサート後の移動の手段については何の目算も保証もなく……。しかし開演間近の問い合わせ電話は、全てこの状況下での開催を一方的になじるものばかりであった。まるで台風を呼んだのがオーケストラ・アンサンブル金沢や我々であるかのごとく。なかでも傷ついたのは「あなた方は立派な建物の中いるからいいでしょうが、外は大変なんですよッ!」という中年の婦人の金切り声であった。

 愛知芸術文化センターの多勢の職員も、オケのメンバーやスタッフ、さらには当日勤務の会場係の女性たち(予定の人員が揃わず、臨時に駆り出された人もあった)も含め、誰もここに住んでいるわけではない。みんな遠方から、その日無事に帰宅できる保証は何もなく、職務を遂行するためにそこにたどり着いているのだ。
 そして公演には、東京から後半になってやっとたどりついた人も含め、800人近い人が来聴して下さった。指揮者岩城宏之氏、ソリスト堀米ゆず子氏了解のもと、遅参した人のため楽章間の入場も許可してもらったのだが(もちろん切れ目のないところは除いて)、そのことについても、取り仕切る我々に対して「名古屋は田舎臭い。途中入場させるとは非常識だ」と言う声も浴びせられたのは悲しかった。その状況に応じて、最善の策を採るとすれば、万人に対して満足のゆく結果はあり得ないことを、たまたま自分が不運な立場に立ったことを、おおらかに認めてもらえないのだろうか。

 それにつけても、あの阪神淡路大震災直後のことを思い出してしまう。懇意にしていた芦屋在住のO夫人は、幸いにも自宅は軽微な損傷で済んだが、周囲は悲惨な状況だった。その数日後、大阪であったオペラ公演を楽しみにしていた彼女は、何としてでも聴きたいと思い、夫君共々、およそ音楽会に出かけるとはほど遠いものものしい出で立ちで、登山靴を履きリュックを背負って自宅を出た。満足に走っていない交通機関を徒歩と乗り継ぎでしのいで会場にたどりついた。そんな格好でやってきた彼女は、自然に化粧室でみんなに囲まれる。そして被災現場の模様を語り、お見舞いには何をという質問に、「ペットボトルの水、調理の済んだ食べ物が嬉しい」などと訴えたのだった。

up.gif

(4) おしどりデュオ  【1999年9月第5週掲載】

●鴛鴦デュオ
 ピアノ・デュオというジャンルは、表現力豊かなピアノという楽器の能力を、いやが上にも強調してくれる大変興味のあるものです。1台のピアノに仲良く並んで腰掛ける連弾、向かい合ってそれぞれの楽器を弾く2台ピアノ、どちらもそれぞれの難しさと魅力があります。
 これは、単にピアノを弾ける二人が合奏すれば出来る……といった手軽なものではない奥の深い「アンサンブル」で、名の通ったペアには、ワルター・クリーンとアルフレッド・ブレンデルのような例もありますが、カサドシュ一家やコンタルスキー兄弟、最近ではラベック姉妹のような「家族」組が顔を並べているのは納得が行くようです。日本を代表するペア角野夫妻も「アンサンブルは何よりも一緒に練習できる時間が必要ですが、夫婦や兄弟というのは、その点に融通が利くのが有利といえるでしょうね」とおっしゃいます。
 名古屋を中心に活動している中岡秀彦・祐子御夫妻も、そんな「家族ペア」。このほど「NHK−FMリサイタル」に出演が決まりました。
 放送予定日はこの9月30日(木)午後3時30分から、再放送は翌10月1日(金)午前10時30分の予定です。プログラムは、
 レーガー:六つのワルツ 作品22(連弾)
 バルトーク:ミクロコスモス より(2台)
 ショスタコヴィッチ:小協奏曲 作品94

 デュオとしてのプロフィールをご紹介します。

 それぞれがソロ活動を行いながら1984年ピアノ・デュオを結成、86年以来、これまでに名古屋で6回のピアノ・デュオ・リサイタルを催している。また91年、95年には横浜でのアンサンブル・コンサートに出演 。
 87、98、99年NHKーFM放送に出演。90年モーツァルト没後200年記念協奏曲全曲連続演奏会(朝日新聞主催)で2台のピアノの為の協奏曲を演奏。  93年のデュオ・リサイタルは名古屋市民芸術祭賞を受賞、ライブ録音がCD化された。また96年の電気文化会館ザ・コンサートホールでのリサイタルは、同ホールのアンコール・シリーズに選ばれ、97年のリサイタルはその主催で行われた。
 なお秀彦氏は10月21日にソロ・リサイタルを行う。 nakaoka.jpg


up.gif