ナターリア・プリシェペンコ(vn)
ハイメ・ミュラー(vn) ※第一ヴァイオリン交替制を採用
フオルカー・ヤコブセン(va)
エッカート・ルンゲ(vc)
1989年、リューベック音楽大学の学生4人が“アルテミス・カルテット”という名の弦楽四重奏団を結成した。この輝かしい音楽家達が現在のかたちで活動するようになったのは、1994年以降のことである。
この弦楽四重奏団は、リューベックでワルター・レヴィン
(ラサール弦楽四重奏団の第1バイオリン奏者。同クヮルテットはルンデの例会には、1981年以後活動を停止するまでに3回来演している)に、ケルンではアルバンベルク四重奏団に師事している。また彼らは米国において、エマーソン弦楽四重奏団及びジュリアード弦楽四重奏団のマスタークラスでさらに大きな刺激を受けている。
1995年のドイツ音楽コンクール(ボン)での受賞に続き、彼らは、弦楽四重奏団にとって最高峰の賞である二つの賞を受賞している。1996年に行われた第45回ミュンヘン国際音楽コンクール第1位と、1997年の“プレミオ・パオロ・ボルチアーニ”弦楽四重奏国際コンクール(イタリア)第1位がそれである。これら二つの賞を受賞した後、彼らはヨーロッパにおける音楽上の最重要都市においてデビューを果たし、米国国内を廻るコンサートツアーを行った。
ミュンヘン、パリ、ミラノ、ローマ、また米国のいずれにおいても、アルテミス・カルテットは賞賛を博し、聴衆を圧倒した。彼らが有する演奏家個人としての技量とあふれ出る“クァルテットの精神”は、彼らの若さ、技巧そして異彩を放つ温かい音楽性と共に大勢の心を捉えた。
大きな成功を手にしたにもかかわらず、アルテミス・カルテットはその演奏カの質的向上を第一義として意識的につとめている。1998年には、アルバンベルク四重奏団の高度かつ専門的な指導を通じて自らのレパートリーと音楽的学識をより充実させる為にウィーンヘ赴いた。また1999年3月、この若き音楽家達はベルリン科学アカデミーの招聘を受け、三ヶ月間の集中ワークショップに参加し、物理学者、作家、画家、歴史家、数学者など異なる領域の偉才らと様々な体験を交えることに全精力を傾けた。この期間、アルテミス・カルテットはこの経験に集中するため、コンサートの予定を一切入れていない。
1999年の6月、ベルリンフィルハーモニーにおけるデビュー・コンサートで彼らは演奏活動を再開し、続く1999−2000年はコンセルトヘボウ(アムステルダム)、カーネギー・ホール(ニューヨーク)、ウィグモア・ホール(ロンドン)でのデビューコンサートをこなすという非常に多忙なシーズンとなった。
アルテミス・カルテットの2000−2001年のシーズンは、ロンドン、ブリュッセル、イスタンブール.ザルツブルク音楽祭、そしてラインガウ音楽祭での演奏の他、米国、イタリア、フランスヘのコンサートツアーだった。
弦楽四重奏団としての純粋な活動の他、アルテミス弦楽四重奏団は他の音楽家達との関わりも強い。例えば、ノルウエーの非凡なピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスと共にコンサートを行なっている。1999−2000年のWDRケルンによるコンサート・シリーズでは彼らは様々な室内管弦楽団に参加し、ザビーネ・マイヤー、ボリス・ペルガメンシコフ、マリア・フスマン、ピーターセン・クァルテット及ぴライプツィヒ弦楽四重奏団と共演した。2000年10月初めには、シャロン・カムとのコンサート・ツアーを、また同月末にはアルバンベルク弦楽四重奏団の低弦奏者〜トマス・カクシュカ(ヴィオラ)及びヴァレンティン・エルペン(チェロ)〜と共に六重奏プログラムによるコンサートツアーを、2001年1月にはソプラノ歌手ユリアーネ・パンセとのツアーが行っている。
アルテミス・カルテットはドイツの放送界でも、そのキャリアの極めて早い時期からで認知されており、彼らのコンサートの多くをラジオ番組として制作してきた。1996年には、彼らはアルハンベルク四重奏団の招聘で、フィルムとして名高い“死とZ女”(EM1)の共同制作を行なっている。また、1997年以降、アルテミス弦楽四重奏団は、フライブルグミュージックフォーラム社との契約で録音活動を行なってきた。ツェムリンスキー、ウェーベルン、ウォルフの知られざる名曲でデモンストレーションCDを作成した後、彼らはモーツァルトのフルート四重奏曲のCD制作を行なっている。彼らにとって初めてのべートーヴェンのCDは弦楽四重奏曲作品第59の3及び作品132で、2000年春にリリースし、それに続いてリゲティの2つの弦楽四重奏曲のレコーディングを行った。