
ロシア生まれのチェリスト、ニーナ・コトワは、「完壁なテクニック」を備え、「力強い表現力」を持つ演奏家として、アメリカ各地で迎えられてきました。「忘れ難い」「情熱的で人々を感動させる」音楽家、芸術家としての才能は、彼女の目を見張る程の美しさに匹敵するものでしょう。
7歳のときにリサイタルを行ない、14歳で作曲をはじめた早熟の音楽家コトワは、音楽一家に生まれました。父親のイワン・コトワは、1973年のジュネーブ国際コンクールに優勝した著名なコントラバス奏者でした。
コトワは、モスクワ中央音楽院に学び、7歳でモスクワ音楽院のチェロ科に入学を許可されたのです。音楽院での厳しい練習とたぐいまれな才能が、15歳の彼女を1985年のプラハ国際コンクール優勝へと導いたのでした。このコンクールでは、ヤブロンスキー指揮のプラハ放送交響楽団と協演しているので、今年末の同オーケストラ日本ツアーでは15年ぶりの再協演を聴くことが出来ます。
父親のイワン・コトフは、35歳の若さで亡くなってしまいます。父親の死後、コトワは当時の西側諸国へと旅立つ決心をします。19歳のとき、当時の西ドイツヘの観光ビザを取得した彼女は、ケルン音楽院に学び、優秀な成績で卒業します。その後、アメリカで勉強する機会を得ましたが、学生ビザを取得できずソヴィェトヘの帰国を余儀なくされ、その後も数年ビザを取得する事ができませんでした。苦難の末、ビザが許可された時、彼女はアメリカで勉強する決心をします。そして、チェリストとしての研鎖を続け、演奏する機会を探しました。プラハ国際コンクールにおいて優勝した事により、エール大学への入学許可と奨学金を得ていたのですが、奨学金だけでは生活ができず、ニューヨークヘと旅立ちます。

1993年の事、彼女は多くのカメラマンの推薦により、フォード・モデル・エージェンシーと契約します。たちまちモデル界を席捲する存在となり、多くの女性誌を飾るトップ・モデルとなったのです。この間彼女は、チェロを伴って世界のファッション・ショーに出演しながら、練習と作曲にあけくれます。2年間、ヨーロッパ、日本、アメリカを、シャネル、ウンガロ、そしてアノレマーニといったブランドのモデルとして活躍した後、彼女は本来の仕事である音楽の世界に戻るのです。
その後も、彼女は使用していた楽器をソヴィエト政府に返さなければならなかったので、新しい楽器を購入するためにモデルの仕事を積極的に受けていました。ところが、皮肉な事にこの貯えを利用する事はありませんでした。ふさわしいアーティストに楽器を提供してくれるある財団が、1696年製のグァルネリの''ベア"という楽器を彼女のために用意してくれたのでした。
彼女が、クラシック音楽シーンに戻って来て、最初のコンサートは1996年、ロンドンのウイグモア・ホールでのデビュー・リサイタルでした。このリサイタルでは、モデルの経験から生まれた自作曲『キャットウォークの情景』を演奏したのです。以来、ヨーロッパでは、ロンドンのバービカンセンターでのウイリアム・ホートン指揮のイギリス交響楽団との協演、モスクワ音楽院大ホールでの公演を含む、バルト海沿岸諸国や、ロシアヘの演奏旅行を行なっています。アメリカでは、ニューヨークのタウンホールでのダラス室内オーケストラや、セント・ルイス交響楽団との協演、ワシントンの国立女性美術館でのリサイタルを行う他、最近では、クレムリン室内オーケストラのソリストとして、テキサス、サンタ・フェ、ニューメキシコを演奏旅行しています。
又、フィリップス・クラシックと独占契約をし、1999年秋に最初のCDがリリースされました。