RUNDE - NagoyaTV Elegant Classics

ニーナ・コトワ チェロ・リサイタル
NINA KOTOVA  Cello Recital


kotova
 ロシア生まれの新進チェリスト=ニーナ・コトワは、今から四年前は売れっ子のモデルだった。フェンディのファッションショーの舞台に立ち、コスモポリタンやグラマーの誌面も飾っていた。だが、イギリスの音楽マネジャーからリサイタルの話をもちかけられたとき、彼女はすぐさまモデルの仕事を捨てた。ロンドンのウィグモア・ホールで独奏するチャンスが訪れたのだ……。
《ルンデ推薦コンサート》
2000年5月20日(土)19:00(開場 18:30)
スタジオ・ルンデ
(名古屋市中区丸の内 2-16.-7)

フレスコバルディ:トッカータ
ブラームス:チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 Op.38
シューマン:アダージョとアレグロ 変イ長調 Op.70
マルティヌー:ロッシーニの主題による変奏曲
ニーナ・コトワ:ピカソ組曲(ピカソによる五つの楽章)
チャイコフスキー:カプリッチョ風小品 Op.62
ショパン:序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 Op.3


【共演】パトリース・ケーニヒ (pf)

【全自由席】一般 \4,000、ペア \7,000
【主催】スタジオ・ルンデ/名古屋テレビ放送
【予約、お問合わせ】スタジオ・ルンデ TEL:052−203−4188

ニーナ・コトワ プロフィール
 ロシア生まれのチェリスト、ニーナ・コトワは、「完壁なテクニック」を備え、「力強い表現力」を持つ演奏家として、アメリカ各地で迎えられてきました。「忘れ難い」「情熱的で人々を感動させる」音楽家、芸術家としての才能は、彼女の目を見張る程の美しさに匹敵するものでしょう。
 7歳のときにリサイタルを行ない、14歳で作曲をはじめた早熟の音楽家コトワは、音楽一家に生まれました。父親のイワン・コトワは、1973年のジュネーブ国際コンクールに優勝した著名なコントラバス奏者でした。
 コトワは、モスクワ中央音楽院に学び、7歳でモスクワ音楽院のチェロ科に入学を許可されたのです。音楽院での厳しい練習とたぐいまれな才能が、15歳の彼女を1985年のプラハ国際コンクール優勝へと導いたのでした。このコンクールでは、ヤブロンスキー指揮のプラハ放送交響楽団と協演しているので、今年末の同オーケストラ日本ツアーでは15年ぶりの再協演を聴くことが出来ます。
 父親のイワン・コトフは、35歳の若さで亡くなってしまいます。父親の死後、コトワは当時の西側諸国へと旅立つ決心をします。19歳のとき、当時の西ドイツヘの観光ビザを取得した彼女は、ケルン音楽院に学び、優秀な成績で卒業します。その後、アメリカで勉強する機会を得ましたが、学生ビザを取得できずソヴィェトヘの帰国を余儀なくされ、その後も数年ビザを取得する事ができませんでした。苦難の末、ビザが許可された時、彼女はアメリカで勉強する決心をします。そして、チェリストとしての研鎖を続け、演奏する機会を探しました。プラハ国際コンクールにおいて優勝した事により、エール大学への入学許可と奨学金を得ていたのですが、奨学金だけでは生活ができず、ニューヨークヘと旅立ちます。
kotova_1  1993年の事、彼女は多くのカメラマンの推薦により、フォード・モデル・エージェンシーと契約します。たちまちモデル界を席捲する存在となり、多くの女性誌を飾るトップ・モデルとなったのです。この間彼女は、チェロを伴って世界のファッション・ショーに出演しながら、練習と作曲にあけくれます。2年間、ヨーロッパ、日本、アメリカを、シャネル、ウンガロ、そしてアノレマーニといったブランドのモデルとして活躍した後、彼女は本来の仕事である音楽の世界に戻るのです。
 その後も、彼女は使用していた楽器をソヴィエト政府に返さなければならなかったので、新しい楽器を購入するためにモデルの仕事を積極的に受けていました。ところが、皮肉な事にこの貯えを利用する事はありませんでした。ふさわしいアーティストに楽器を提供してくれるある財団が、1696年製のグァルネリの''ベア"という楽器を彼女のために用意してくれたのでした。
 彼女が、クラシック音楽シーンに戻って来て、最初のコンサートは1996年、ロンドンのウイグモア・ホールでのデビュー・リサイタルでした。このリサイタルでは、モデルの経験から生まれた自作曲『キャットウォークの情景』を演奏したのです。以来、ヨーロッパでは、ロンドンのバービカンセンターでのウイリアム・ホートン指揮のイギリス交響楽団との協演、モスクワ音楽院大ホールでの公演を含む、バルト海沿岸諸国や、ロシアヘの演奏旅行を行なっています。アメリカでは、ニューヨークのタウンホールでのダラス室内オーケストラや、セント・ルイス交響楽団との協演、ワシントンの国立女性美術館でのリサイタルを行う他、最近では、クレムリン室内オーケストラのソリストとして、テキサス、サンタ・フェ、ニューメキシコを演奏旅行しています。
 又、フィリップス・クラシックと独占契約をし、1999年秋に最初のCDがリリースされました。

《自作の「ピカソ組曲」について》

 ニーナ・コトワは、子供の頃よりピカソの作品に興味を持ち、その驚くべき創造力、エネルギーと色彩の構成に感銘を受けていた。13歳の時、いくつかの絵画を題材にして小品を作曲している。彼女はピカソの作品の本質を、彼女自身の色彩感覚で表現した。
 15歳の時プラハ国際コンクールに優勝、その後チェリスト・作曲家として研鑽を積んだ彼女は、フィリップス・クラシックスと独占契約を結ぶ。モスクワ室内オーケストラと、彼女自身の作品を含むチェロのための小品を録音し、1999年9月にリリースされた。
 1986年に作曲された“ピカソ組曲”は、ピカソの青の時代の、即興的なスタイルを基にした、無伴奏の『後ろ向きの裸婦』で始まる。第2楽章は、ピカソの四人のうちの最初の子供を描いた新古典主義的な印象を持つ『ポールの肖像』を題材にしている。この優しい子守歌は、ト長調の主音を基礎にして、ピアノが、かろうじて聞こえるような海のさざなみを、揺れるような感じで表現することにより、ブルーを連想させている。 『パイプをくわえた学生』を題材にした第3楽章は、ピカソのひょうきんな面を表しているかのような、対照的で機知に富む小曲のコレクションといえよう。『エル・グレコの肖像に』を題材とした第4楽章は、ピカソが抱くエル・グレコに対する畏敬の念へ、コトワが賛辞を贈っている。ニ長調で表される有名な「黄色の仕事場」と、中間部に突如現れ無伴奏チェロで演奏される、ト長調による「活気に満ちた青空」からなる『アトリエ』が、この組曲を締めくくる。

《新聞評より》

 彼女の長所は、適格な弓のコントロールによる豊かな音色と、高い音域でのフォルティッシモにおいてもチェロ特有のかん高さが押さえられ、豊かさが保たれている点である。しかし、このような技術的な事を越えて、心の底から豊かな彼女の人間性を示してくれた。聴衆は、彼女がしっかりと作曲家の情趣をとらえている事を感じるので、度を超えた脚色を必要としないのであろう。  〈ワシントン・ポスト1998年10月〉

 私は幸運にも、ウィグモア・ホールでデビューを飾る、数人の素晴らしいチェリストと出会ってきたが、二一ナ・コトワほど印象深いチェリストは存在しなかった。  〈ミュージカルオピニオン1996年8月〉

 3楽章が終わるや否や、オーケストラから拍手が沸き起こり、心を奪われた聴衆からは暖かい大喝采の嵐が吹き荒れた。この日のエルガーのチェロ協奏曲は、とても忘れる事はできない。  〈ミュージカルオピニオン1996年11月〉
【NEWSWEEK 1999.5.19】
クラシック
私、弾いてもすごいんです
新進チェロ奏者のN. コトワはロシア生まれでモデル出身
今年10月にはカーネギー・ホールでのデビューも飾る



 今から四年前、ニーナ・コトワは新進のモデルだった。フェンディのファッションショーの舞台に立ち、コスモポリタンやグラマーの誌面も飾っていた。
 だが、イギリスの音楽マネジメント会社からリサイタルの話をもちかけられたとき、彼女はすぐさまモデルの仕事を捨てた。ロンドンのウィグモア・ホールで独奏するチャンスが訪れたのだ。
 そして昨年の夏、コトワは名門マネジメント会社のコロンビア・アーチィスツと契約。レコーディングもフィリップス・クラシックスとの専属契約が決まり、秋にCDを出すことになった。10月には、カーネギー・ホールでの初演奏も予定されている。
 とはいえ、ここまでの道のりは.平坦ではなかった。コトワはモス.クワ生まれで、父親はコントラバスの名奏者イワン・コトフ。だがその父は、彼女が15歳のときに突然他界した。その4年後、コトワはモスクワ音楽院を退学し、母を残して単身ロシアを後にした。そしてドイツのケルンを経てアメリカヘ渡り、エール大学の奨学生に選ばれた。

楽器が員えなかったので
 チェロを買う金に困っていたコトワは、ニューヨークのフォード・モデル・エージェンシーのオーディションに挑戦した。すると、その場で契約となったばかりか、二日で雑誌の仕事も決まった。
 コトワ自身の思惑はともあれ、モデルになったことは賢明な選択だった。
 クラシック音楽のリスナーの中.心層が高齢化して減少するなかで、レコード会社はファンの拡大に頭を悩ませている。そのためクラシック音楽の世界でも、若いファンを獲得するためにルックスやセックスアピールで演奏家を売り込むことが、一つの作戦として定着するようになった。
 コトワにも手ごわいライバルたちがいる。胸の谷間もあらわなアンネ・ゾフィー・ムター、ぬれたTシャツ姿でバッハを弾いたバネッサ・メイ、プレイボーイ誌上でヌードになったバイオリニストのリンダ・ランペニウス……。とはいえ、コトワにとってモデルの仕事は、名前を売るためのものではなかった。音楽だけの生活から抜け出す道だったのだ。「私は四つの壁の間で育った」と、コトワは言う。「練習と勉強、音楽学校と演奏会。外に出て本当の生活を見ることはなかった」
 そんな彼女は今でも、モデルとしての華やかさよりも、クラシックの音楽家らしい純朴さをもち続けている。髪形はごく普通だし、メークもしない。

才能の評価は分かれるが
 音楽家としての才能については、評価が分かれている。
 フィリップス・クラシックスのコスタ・ピラバチ社長は、彼女の「すべて」――才能、教育、美貌、生い立ち――に打たれて契約したという。しかしその一方で他の若手ソロイストたちと才能は変わらないと評する声もある。
 エール大学時代の恩師のアルド・パリゾー教授は、「素晴らしい才能に恵まれたチェロ奏者だ」と.言う。「表現力もイマジネーションも優れていて、ステージでの存在感も際立っている」
 コトワと共演した指揮者たちも、同様の評価をしている。温かな音色、流麗なテクニック、聴衆と心を通わせる力があるというのだ。セントルイス交響楽団の常任指揮者ハンス・フォンクは、「彼女には特別な雰囲気がある。人の心を打つ特別な何かをもっている」と語る。
 コトワの目標は、「音楽家の生活」を続けることだ。それでも、ときにはモデルの仕事もいていきたいと考えている。
 「私はパフォーマンスが好きなの」と、彼女は言う。「何かを創造して、その美しさを分かち合うことが好き」
 ファッションショーのステージもコンサートホールも同じこと、というわけだ。

 アナ・クチメント

パトリース・ケーニヒ プロフィール
 南メソジスト大学(SMU)でピアノの研鎖を積み、ピアノ演奏において学士及ぴ修士、ピアノ伴奏において修士号を得る。その後、ダラス木管シンフォニーのピアニスト、ガーランド芸術学校のピアノ科主任として活躍。又、SMU音楽院の伴奏スタッフ及び、ニュー・メキシコ州タオスでのSMU室内楽シリーズの伴奏者をつとめる。現在に至るまで、ソリストとして、トレントン交響楽団、ダラス木管シンフォニー、パースペクティヴズ・ニューミュージック・アンサンブル、SMU交響楽団、SMU音楽院オーケストラと協演する他、伴奏者、室内楽奏者として活躍する。
 SMU在学時代には、協奏曲コンクールで優勝し、メドウス財団より奨学金を授与される。同時に、ファン・カティヴィーク賞とフォン・ミクヴィッツ賞を受賞し、オーストリアのモーツァルテウム音楽院で学ぶ機会を得た。アルフレッド・モウルダウス、ホアキン・アチュアロ、テッド・ショセルソン、エリザベス・リトル、エリック・フリードマン、及ぴレフ・アロンソン各氏に師事。
 現在は、テキサス木管アンサンブルのピアニストとして活躍する他、ダラスにおいて後進の指導にあたっている。「フィエスタ」や「トウリティコ」といった、ダラス木管シンフォニーのCDでも協演している。


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